以下の文章は、過日の西宮公同幼稚園の「せいかつ作品展」の資料に書かせてもらった文章で、更にそのまま2022年度の文集の文章にもなっています。「子どもたちの生活する時間」について、考えていただく参考になれば幸いです。
今年の年長組の子どもたちのネームプレートには、時計が取り付けられることになりました。
子どもたちは、多くの場合、いわゆる時計・時間に縛られて生活することはありません。全く逆で、時間を忘れ、いつまでも、いつまでも我を忘れて遊んでいるときの子どもは、至福の時を過ごしているのです。子どもたちは、それが何かの「価値」であるもので生きている訳ではありません。ゲームカードが高額で取り引きされているとのことですが、子どもたちのおだんご(泥団子)は、どんな名人芸で真ん丸になっても、取り引きの材料になったりはしません。土くれを、手の平の上で転がして「さら砂」をかけて転がしているうえに、ほぼ完全な真ん丸になるまでの手の平の感覚をいつまでも大切に、我を忘れて過ごしているうちに、それぞれにとっての自慢のおだんごになります。
ですから、子ども時代の何よりもかけがえのない時間は、追われたり、追っかけたり、刻まれたりする時間を数えることではなく、その時間を忘れて過ごす時間なのです。
ところが、ネームプレートで時計を取り付けることになりました。
文字盤に、貝、微小貝を取り付けながら、少しだけ子どもたちと時間について話をしました。12時から始まって、一巡する時間を数える子どもたちもいましたが、解りやすいのは、例えば昨日の夕食の時間や、寝る時の時間でした。たまに、まれに、寝る前の絵本の時間をあげる子どももいました。こうしたことから推察できるのは、子どもたちにとっての、自分の体に、響く時間であることです。要するに、我を忘れておだんごを作っていたりする時間なのです。
それにしても、ネームプレートに取り付けることになった時計で願うのは、誰か、強い力に指図されたり、支配されたりする時間ではなく、子どもたち一人一人が自分の時間を生きて欲しいことです。
このネームプレートの時計の時間は、ネームプレートの持ち主である「きみのじかん」を刻む時計なのです。
春にいっぱいの白い花を咲かせ、緑の実が黄ばんで、秋が深まる頃に、こげ茶色の実がはじけ出るのが、エゴノキです。つい先日、畑の南の公園で実を拾い集めていると、子どもたちの間から「エゴノキ」という声がちらほら聞こえてきます。
そのエゴノキの実が、ネームプレートの時計の部分を抜き取った、もう一つの時計の文字盤になったり、ネームプレートの文字の一つにもエゴが並べられています。
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