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小さな手大きな手

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2017年09月03週
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 いつの頃からか、幼稚園で子どもたちがなわとびが1000回を超えると、“赤なわ”がプレゼントされます。30年程前、その当時話題になっていたミニFM局をすることになり、少しはそれを楽しんでいました。確か送受信のアンテナは住宅の屋上に設置してあり、そこから赤い同軸ケーブルが下まで下ろされていました。ミニFM局はそんなに長くは続かなかった後も、赤い同軸ケーブルはぶら下がったままでした。その同軸ケーブルを外した後、ふと思いたってなわとびなわにして使うことになって跳んでいました。程々の重さが、跳びやすかったのです。
 その頃に、なわとびで1000回を超える子どもが出現して、みんな驚いて喜びました。で、そのお祝いに、えんちょうの使っている赤い同軸ケーブルのなわとび縄をプレゼントすることになりました。“赤なわ”です。
 “赤なわ”贈呈の時の袋や、ホットケーキなどは、その後少しずつお祝いに加わっていきました。
 そんな赤なわを入れる袋に印刷されている絵と文章は、「ヒナギク野のマーティン・ピピン」(ファージョン作品集、「エルシー・ピドック夢でなわとびをする」)からの一節です。

高とび するりとび
羽根のような軽とび
長とび 強とび
それから、みんなでそろってとび!
おそとび 爪先とび
二度ぐるりぐるりとび
早とび おさめとび
そして 心配ごとははねとばせとび!

 この、ファージョンの作品に絵を描いているのが、エドワード・アーディゾーニです。「エルシー・ピドック夢で縄とびをする」のファージョンの物語もアーディゾーニの挿絵も、たとえば西宮公同幼稚園の子どもたちがなわとびで遊ぶ様子に、これくらい自然でぴったりで、短い文章と挿絵は今も、“赤なわ”贈呈の欠くことのできない役割を担っています。「エルシー・ピドック夢で縄とびをする」は、なわとびの物語としては、これ以上ない絶妙な物語ですが、少しの挿絵の長い物語で子どもたちには紹介しにくかったのですが、シャーロット・ヴォークが絵を描き絵本になり、たまに気合を入れて子どもたちに読むことがあります。
しかし、挿絵は少ないとはいえアーディゾーニのエルシー・ピドックにはかなわないのです。
 ファージョンの物語にアーディゾーニが挿絵を描いて、第一回国際アンデルセン賞になった作品が「ムギと王さま」です。(現在は岩波少年文庫で「ムギと王さま/本の小べや1」「天国を出ていく/本の小べや2」となって手にすることができる)。石井桃子の絶妙の日本語と、アーディゾーニの挿絵が、このすばらしい物語を、更にすばらしいものにして、子どもたちはもちろん、かけがえのない物語として、いっぱいのことを語りかけます。本の小べや2の「ティムの一家」は短い物語ですが、人間が相互扶助を生き忘れなかった時、世の中がどんな平和で優しい人たちの世界であり得たかをゆっくり静かに語りかけます。「ティム一家」は「そのうち、赤んぼティムが、百歳で、およめさんをもらわないで死にました。それからというもの、仲よし村も、ほかの村と同じように、何かに手だしをするようになりました」で閉じられています。それからというもの、「事件」と「大さわぎ」が繰り返される、今の私たち世界になってしまいました。
 ファージョンの物語に、アーディゾーニが挿絵を描いて小さな絵本になったのが「マローンおばさん」(こぐま社)です。小さな絵本の、ページ毎の小さな絵で描かれているのは「森のそばで ひとり貧しく くらしていた」マローンおばさんです。「お皿には ひときれのパン だんろには なべひとつ 話し相手も じぶんだけ ひとりぼっちの さびしいくらし」「肩かけをし ずきんをかぶり 家のまわりで たきぎを拾い 古いぼろの 荒布しいて 床の上で ねむっていた」「だれひとり ひとりとして 様子をたずねる人もなく 心にかける人もない」。そんなマローンおばさんを訪ねてきたのがスズメ、ネコ、キツネの母子、ロバ、クマなどの動物だけですが、「どの動物にも、わずかでも おばさんは食べ物を分け」そして「あんたがたの居場所くらいここにあるよ」と言うのでした。こんな小さな物語の小さな絵本の、黒一色のふさわしい小さな挿絵になっています。
 そんなアーディゾーニの絵本で、半世紀以上読みつがれてきたのが「チムとゆうかんなせんちょうさん」です。子どもというものを、その人格において、どんな意味でもないがしろにしない精神が貫かれていることが、時代を超えてこの絵本が子どもたちによって支持されてきた理由です。たまたま訪ねた船に取り残されてしまったチム、それが見つかってしまった時に、チムも船の人たちも驚きます。しかし、海に乗り出してしまった船ですから、その取り返しのつかない事実を、チムも船の人たちも覚悟して引き受けます。船という小さな世界の小さな共同体では、誰も例外なく、チムにもふさわしい役割が与えられます。役割、責任を果たすことによって成り立っている社会だからです。そのことにおいては、たとえ子どもであるチムであっても容赦しないのがチムの乗った船です。しかし一方で、その社会で役割を果たす人間(子どもであっても)が認められた時、すべてにおいて扱いは対等です。その社会(船)に身を置いて全力で生きている人たちは、その事実に自ら向かうことにおいて勇敢な人たちなのです。
 大人たちの船の世界で、もちろんチムは子どもです。大人たちが全力で生きている時、チムも子どもの力を尽くして生きます。子どもらしく、しかし、一人の人間として生きるのです。アーディゾーニの描く「チムとゆうかんなせんちょうさん」の絵本の世界です。そして、何よりも、誰よりも勇敢なのが、この船の船長です。座礁した船が、今まさに沈もうとしている時、その船に残っていたのは、チムと船長だけでした。「チムは、ブリッジにあがって せんちょうをみつけました。せんちょうは じぶんのふねをすてないで、がんばっていました。『やあ、ぼうず、こっちへこい。なくんじゃないよ いさましくしろよ。わしたちは、うみのもくずときえるんじゃ。なみだなんかはやくにたたんぞ』せんちょうにいわれて、チムは なみだをふいて もう びくびくするものかとおもいました。このせんちょうといっしょなら、うみのもくずとなろうとも、かまわないと おもいました。ふたりは、しっかりてをにぎって、さいごをまちました」
 船長たちが勇気があるのも、子どものチムを子どもなりのその働きで対等の人間として付き合うのも、その船がそんな気風の船だったからです。その気風の中心に居たのが、「じぶんのふねをすてないで がんばる・・・」船長でした。特別に強い人間が特別のふるまいではなく、船を仲間と一緒に生きる場所にしてきた人の勇気です。
 まあ、そんなことが、アーディゾーニの絵で描かれる絵本です。
 アーディゾーニは、日本語にもなっている2冊の詩の本にも挿絵を描いています。「孔雀のパイ」(ウォルター・デ・ラ・メア、理論社、まさき・るりこ訳)、「ライラックの枝のクロウタドリ」(ジェイムス・リーブス、間崎ルリ子訳、こぐま社)です。

ああ、なんと!

アン、アン! おいで、はやくきて…
さかなが口をきいている。
おなべの中の、鏡のようにすみきった
あぶらの中から首を出し、
口を開けると、「ああ!」といった。
ああ、なんてかなしい「ああ、なんと!」
それからじゅうじゅういいながら
おなべのなかにしずだよ。

おぼえていたいこと

五月には、キンポウゲが咲いていて、
野バラが枝でほほえんでいる。
草の中からポピーがちらほら顔を出す。

丘の上にはプリムローズが咲いていて、
ジギタリスが鏡のようにぶら下がり、
スイカズラが匂っている。

こういうことをおぼえておこう。
きびしい、さむざむとした十一月が
暗い十二月に席をゆずるときのため。

 「ぶんこだより」では、赤なわの袋「ヒナギク野のマーティン・ピピン」の挿絵を、Edward Ardizzone(エドワード・アーディゾーニ)としましたが、Amazonで入手した作品集で確認したところ、“イズベル&ジョン・モートン=セイル”でした。
 公同文庫にあったファージョンの著作集7冊のうち「ヒナギク野のマーティン・ピピン」を含め、4冊が不明でAmazonで入手しました。

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