(前週よりのつづき)
たとえば、「採取」するための経路・穴なのですが、新しく開けたりするのは、危険です。既存の経路・穴を使うことになりますが、空きっぱなしだったりすると、超高濃度の放射性物質で、作業する人が被ばくします。それを最小・最低に抑えながら短時間で採取しようとすると、0.9グラムでも快挙なのです。
ですから、「デブリに水をかけながら取り出す『気中工法』と、デブリをコンクリートのような充填剤で固める『充填固化法』を組み合わせる方法を採用すると決めた」としていますが、決めるのは勝手ですが、現実にそれが可能かは、この場合は全く別です。
たとえば工法の基本の「デブリに水をかけながら」も「充填剤で固める」も、その方法はともかく実行に移すということでは、一歩も進めようがないのは、高濃度の放射性物質の壁がそれを阻むからです。
それが、東電福島の重大事故、「推定」880トンと言われるデブリの事故なのです。
そんな、「デブリの取り出し」は言うに及ばず、既に指摘している、東電福島の事故の事実は、事故対策が収束に向かうのではなく、そのいずれも見通しないまま継続している、現在進行形なのです。
「処理水」と称する「汚染水」の問題も、処理水とは言ってみたものの、処理したことにしてみたりしても、それが放射性物質で汚染されているとすれば、処理不能の汚染水であることに変りはありません。それが「タンク貯水7割再浄化必要/処理水放出2年、基準超す放射性物質濃度」だったりします。
「処理水」と称する「汚染水」の放出が続いています。11日(9月)から、15回目の放出が始まっています。「東京電力は11日、通算15回目となる福島第一原発からの処理水の海洋放出を開始した。今年度4回目、約7800トンを海へ流し、順調に進めば29日に完了する予定」。(9月12日、福島民報)。
ただ「順調」でないのは、「処理水放出2年、基準超す放射性物質濃度」だったり、「タンク貯水7割再浄化必要」だったりする為です。
「東京電力が福島第一原発の処理水の海洋放出を始めてから24日で2年、これまでに約10万トンを放出し、敷地内のタンクには約128万トンが残る。このうち約7割は放射性物質濃度が基準より高く、再び浄化処理(2次処理)する必要がある。作業が遅れれば、廃炉完了の目標である2051年までに放出が終らないおそれもある」(8月25日、朝日新聞)。
「処理水」とは言いながら、処理をしても、トリチウムが残るため、「トリチウム水を、海水で約100倍に薄め」、「海底トンネルを通じて原発の沖合約1キロで海洋放出」しています。そのままでは「濃い」ので、「近くの海から海水をくみ上げて薄め」「海底トンネルを通じて原発の沖合約1キロで海洋放出」するなどということを、「科学・技術」だとしてしまう科学・技術で稼働し、供給しているのが「熱中症対策」の為使用がうながされる「電力」です。
それは、「生きる為の日常」にとって必要な事なのでしょうが、少し立ち止まって、それを可能にしている「科学・技術」のことを考えてみると、それこそが人間存在を危うくしていることが明らかです。
この科学・技術の基本であるべき「考えてみる」が、欠落している事が、東電福島の事故と、その対応の至るところで露呈していると言わざるを得ません。
汚染水を「処理水」の名のもと海洋放出すること、中間貯蔵されている汚染土の再利用、使用済み核燃料の中間貯蔵など多岐に及びます。
(次週につづく)
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