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小さな手大きな手

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2025年08月04週
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(前週よりのつづき)
 原子力発電所のようなものの稼働は、どんな意味でも、扱っている放射性物質を、環境中に放出することがあってはならないという「条件」には、たとえば地震のような基本的に予測不能な自然の営みであっても、それを「想定外」とすることは、そもそもの条件を満たしてはいないことを意味します。
 すっごい暑さで、連日「アラート」が発令されていますが、そして、「こんなはずではなかった」などと言われたりしていますが、自然という、それこそ千年、万年のゆるやかな自然の営みを、「人間は自然の一部」であることを、忘れる、ないしは無視して、いじくり回した結果のすっごい暑さを、相変わらず、人間の身勝手の対症療法で、「冷やせ、冷やせ」で、電力の浪費が奨励されています。
 東電福島の事故は、「人間は自然の一部である」こと、その自然の営みに、どんな意味でも自然と相容れない、結果としては、厳然とした事実として示した、放射性物質の環境への放出ということが起こってしまいました。
 だったら、電気というようなエネルギーは、自然の営みに見合うように、その扱いを自然の一部である人間の生活の間尺に合わせることへと舵を切り替えるべきだったのに、結局は使い放題があたりまえになってしまいました。
 そんな「使い放題」で、この国の場合唯一成り立ちそうなのが原子力発電で、「関電、美浜で原発新設へ」です。
 原子力発電所が「未完成」の技術であるのは、東電福島の事故によって放出された放射性物質が、どんな意味でも処理不能である事実が突き付けています。その処理不能を、処理の先延ばし、薄めるというまやかしによるトリチウムの海洋放出、汚染物質の「中間貯蔵」、事故から14年その存在の事実も明らかにできない「デブリ処理」など、そのいずれも、科学する人間が、実は「人間は自然の一部である」という、生きものとしての人間の何よりの豊かさを放棄ないし誤ったことに起因しているところに、相変わらず立とうとしたことが問われているのに、たどり着いた結論は、「関電、美浜で、原発新設へ」です。
 原子力発電所が、不完全な技術であるのは、それを稼働することによって発生する、放射性物質・毒物である使用済みの核燃料の処理が行き詰っていることです。放射性物質は、それも自然の一部である時は自然の生きものである人間と「折り合い」が付いていました。しかし、それを人間の都合で手出しをし、発生させてしまったのが、使用済み核燃料です。
 「使用済み」と言い「核燃料」と言っていますが、立派に処理不能の放射性物質・毒です。それを「再利用」するとしていますが、それを阻んでいるのが、その物の毒です。
 処理は、行き詰っています。
 「行き詰っている」のですから、それを生み出す原子力発電所の稼働を止めるかと言えば、東電福島の事故で、一旦は停止していた原子力発電を順次稼働させています。問題が、事故であるのはもちろんですが、問われている技術は、稼働を可能にする技術だけではなく、たとえば不可避的に発生する放射性物質の毒、使用済み核燃料の扱いでもあってはずです。
 結果的には、その扱いは見通しは立っていなくて、「関電、美浜で原発新設へ」の関電も、それが扱いきれなくなって、「中間貯蔵施設」への「委託」を開始しています。
(次週につづく)
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