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2006年04月04週
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〈議案〉日本基督教団の現行教師制度(教師養成、教師検定試験)の再検討に関する件

〈主文〉日本基督教団は、現行教師制度(教師養成制度、教師検定制度)が、宗教としての存在理由や意味を問われることにおいて、必要な働きをなしていない実態を真摯に受けとめ、その実態を明らかにし、今後のあり方を根本的かつ具体的な検討を開始する。

〈提案理由〉宗教あるいは宗教的なものが事件になった結果、宗教の存在理由や意味が問われています。一方で、宗教が肥大化することと、主として世俗の問題に関心を払うことで、同じように宗教の存在理由や意味が問われています。世界的な潮流として、宗教間の対立がことさら問題になって、ここでも宗教の存在理由や意味が問われています。
 キリスト教、中でも日本基督教団も又この問いの前にたたされています。その場合に、問われている自覚の乏しいことが、この宗教団体の本質的な貧しさかも知れません。たとえば、教師や教師の周辺でいくばくかの事件が社会的に話題になったりする場合があります。宗教も教団も教会も教師であることももちろんしょせんは人の営みであってみればこうして事件になったりすることもすべてあり得ることです。しかし、その場合の処し方は、宗教・宗教家として自らを問う問いにおいて、ずさんであってはならないのです。なのにずさんであるのは、宗教がたとえば神を語って(あるいはそのもとで生きて)、語らない(生きない)に等しいのです。これらのことが深刻であるのは日本基督教団の現行教師制度の教師の働きの中で露呈しています。いくつかの事件において、教師及び教師制度の保身のこととして事件は処理されてしまいました。又、教師の階層性(補教師・正教師)が引き起こしてきた問題の場合も、常に繰り返し教師の為の制度(教師の為の教会)としてしかとらえ切れませんでした。日本基督教団が、そのことで存在理由や意味を問われているということではとらえないのです。
 “神は存在する”ということ、宗教に存在理由があるということは、その宗教及び宗教の制度の為でないのはもちろんです。たとえば、今この世界が子どもたちにとって住みやすくないとすれば、そのことに力を尽くして立ち向かうということでなくては“神の働きの担い手”を生きるとは言い難いのです。 height=1
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