(前週のつづき)
こうしてみる限り、米軍を中核とするNATO、プーチンのロシアによって、ウクライナを戦場とする衝突・戦争はそれを避けようとする思惑よりは、より現実となる方向に向かっていることの方が確かであるように見えてきます。そして、2月24日、ロシア大統領プーチンによる、ウクライナの戦争が始まってしまいます。
「米国とその同盟国にとって、これ(NATOの東方拡大)はいわゆるロシア封じ込め政策であり、地政学的な配当は明らかである。しかし、我々の国にとっては、最終的に生死の問題であり、民族(ナロード)としての我々の歴史的な未来にかかわる問題である。しかも、それは大げさな話ではなく、国家の存在、主権に対する真の脅威である。これが、繰り返し語られてきたレッドラインである。彼らはそれを超えてしまったのだ」(プーチン、2月24日の演説、塩原俊彦、前掲書)。
だからと言って、ウクライナを戦場とする戦争にどんな意味での正統性もありませんが、一方で、ロシアを仮想敵国とする「威嚇」が刻々と迫っていたのも事実で、その鍵を握っていたのが米国であり、その圧倒的な「暴力」です。
「プーチンが戦争を始めたこと、そしてその戦争がどのようにして行われているかに責任があることに疑問の余地はない。しかし、なぜ彼がそうしたかは別問題である。プーチンは旧ソ連のような大ロシアをつくろうとする非合法的で常軌はすれの侵略者であるという見方が西側では主流である。ゆえに、ウクライナ危機の全責任は彼一人にあるというわけだ。しかし、それは間違いである。2014年2月に始まったクリミア危機の主な責任は、西側、とりわけアメリカにある。それは今や、ウクライナを破壊する恐れがあるだけでなく、ロシアとNATOの核戦争にエスカレートする可能性を秘めた戦争にまでなってしまった」(塩原俊彦前掲書、2022年3月、ジョン・ミアシャイマー“The Economist”)。
始まってしまった、ロシア大統領プーチンによるウクライナの戦争は、「ウクライナを破壊する恐れがある」だけでなく、ウクライナの戦闘が続く戦場で、取り返しの付かない失われる命はもちろん、日々その破壊の範囲を広げています。言われている「ロシアとNATOの核戦争にエスカレートする可能性を秘めた戦争」の、核戦争の核兵器は、NATO軍の中核である米国・米軍においては、「敵を脅迫するこの狂気じみた行動が現在では『核兵器の現代化』という形で復活し」(ジョン・ダワー、前掲書)、実は、ロシア大統領プーチンによるウクライナの戦争の中核的な位置を占めているのです。
その、ロシア大統領プーチンによるウクライナの戦争で、日本はほぼ全くアメリカと同一の歩調を取ってきました。そんな日本の敗戦後の歩みを見つめてきたジョン・ダワーは、「アメリカ暴力の世紀」で次のように言及しています。
「日本は、重要な兵器の輸出国でもないし、年間予算が飽くことを知らない戦争機構の維持に重きをおいている訳でもない。これらの事態は日本がまだ占領下にあった1946年に国会で採択された『平和憲法』のビジョンと理想を、国民が指示し続けてきたことを反映しており、この日本語序文を書いている現在に至るまで、この憲法は変更されていない。日本の保守主義者や新愛国主義者たちが熱望しているように、日本がもっと『普通』の軍事化を促進するために憲法を変更するようなことがあれば、戦後日本国家の性格を変えることは間違いない。しかしながら、そのようの憲法の変更が行われても、そのことで、今日まで日本の安全保障政策を特徴づけてきた、アメリカ政府の指令に対する日本の従属と追従に変化が起きることは全くない。いやそれどころか、日本政府は、トランプと彼のアドバイザーたち(さらにその後のアメリカ政府の継承者たち)が着手すると思われる新しい軍事戦略に、それがいかに思慮不足で好戦的なものであろうと『積極的に』貢献するようにその圧力をますます強く受けるようになるであろう」(前掲、ジョン・ダワー、日本語版の序文)。
と言うような、ジョン・ダワーの指摘に耳を傾けるのであれば、そんな国に生きている自分をどんな形であれ徹底して厳しく見つめ直すことであるように思えます。「…必要なのは、個々人の『品格』であったり、『志』であったり『矜持』であったりする。主権国家を離れて、もっと自由に活躍できるだけの能力を身につけるのだ」(前掲、塩原俊彦)。
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