(前週よりのつづき)
でも、それが「まあこんなものか」であったり、「まかりとおらせたり」かつ「たかをくくらせたり」は、いったい誰なのだろうか。ただ、そうして「支離滅裂」であってもいい、ないし平気であり得るということは、つきつめて言えば「他者と主体との間に『共通の祖国』はない」ことを了解していることになり、「他者とは主体の理解も共感も絶した絶対的他者なのである」ということになります。
ここで紹介する「 」内の文章は、「レヴィナスの時間論」(内田樹、新教出版社)からの引用です。以下、更に長々と引用します。
この断言は思弁的に導かれたものではない。ホロコーストの経験が語らせている。六百万人のヨーロッパ・ユダヤ人たちは、彼らと祖国を共有し、言語を共有し、イデオロギーを共有し、しばしば理解や共感で結ばれていたはずの人々に見捨てられて、殺された。やすやすと政治的恫喝に屈し、デマゴギーに流されて、隣人の虐殺を黙過するような人々と生活を共にしている場合、共同存在的な「基盤」はさしたる役に立たない。そのことを歴史は私たちに教えてくれた。隣人たちはわずかな理由によって、それほどの心理的抵抗もなく、「私たちの排除」に手を貸すことがある。人間とはそういうものだ。それが分かった上で、なお主体にチャンスを与えようと願うなら、「いかなる理解も共感も絶した他者」とさえ対話できるような堅牢な、そして困難な関係を立ち上げるしかない。それが、歴史がレヴィナスに求めた喫緊の哲学的課題であった。
「レヴィナスの時間論」内田樹、はじめに、新教出版社)
こんな書物の、こんな文章を書いている内田樹の、「選挙で『正しい』選択とは」及び「安倍晋三暗殺事件の意味」を読みました。いずれも「週刊金曜日/凱風快晴ときどき曇り」で書かれている文章です。
で、ふと思うのは、内田樹はなぜこうした事柄に、「本気」でかつ「真剣」なのか、です。「レヴィナスの時間論」の奥付によれば、れっきとしたレヴィナスの研究者です。「研究者」として、「レヴィナスの時間論」を書いているのですが、そこで書かれているのが、たとえば引用した文章です。この「はじめに」の最後は「…それでもレヴィナスの時間論が観照的思弁ではなく、切れば血が出るような実在的経験から滲出してきたのだという事実を伝えることができるならば、とりあえずは私としては十分である」となっています。ある人がある一つのこと、ないしは得意分野について「切れば血が出るような実在的経験」だと言い切ったとしても、たぶん信用はしない方がいいように思えます。しかし、思想・思考の根底にそれをすえて生きているのであれば、今自分が出会い直面しているできごとが何であれ、それを素通りはできないはずです。その意味で、内田樹の「選挙で『正しい』選択とは」や「安倍晋三暗殺事件の意味」は、「『いかなる理解も共感も絶した他者』とさえ対話できるような堅牢な」自分を生きてきた人であって、はじめて言わなければならなかったのだと思えます。
ただ、この「堅牢」さは、優れた知性だけがなさしめるのではなく、広く、深くかつ柔軟な日常感覚及びそんな生活に根差したものであるのはもちろんです。
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