(前週よりのつづき)
3、「核兵器」の使用を辞さないと明言して始まった戦争。
これこそが、この戦争の何よりの本質そのものであること、即ち「核兵器」の使用を辞さないと明言するロシア大統領プーチンの戦争であること。
「核兵器」を持つ国が、その使用を辞さないと明言する戦争は、ロシア大統領プーチンによって始まったウクライナ戦争が最初です(最初のはずです)。それも、万一「劣勢」ないし、ロシアに戦場が及んだ時には、「核兵器」を使用するという「通告」です。ロシアが持っている、戦術的と言われる小型の「もの」であっても、その威力と影響は決して限定的であり得ないのが「核兵器」です。
しかも、仕掛けた戦争が仕掛けた側にもし及ぶことがあればというのが、この「通告」の前提条件になっています。戦争も、平たく言えば「けんか」であるとすれば、それが始まってしまったとしても、どこかで折り合いをつけて仲直りと言わないまでも終りにします。その場合、勝ち負けやその度合いによって、終り方に有利、不利はあり得ます。それらのことは、一切吹っ飛ばして、全く一方的に戦争を始めて、無条件で屈服する以外あり得ないとするのが、ロシア大統領プーチンによって始められたウクライナの戦争です。前掲の1~3がそれなりの事実だとすれば、これはそんなに間違った理解ではないように思えます。
先日、日本にやってきた米国大統領バイデンは、安保条約にもとづく日米同盟とその役割を確認するにあたって、「核兵器」に言及していました。この人たちにとって「核兵器」は象徴や飾りではなく、使うことを前提にした兵器そのものです。ただ、少しばかり違うのは、始めてしまった戦争で、その使用を一方的に「通告」したりはしていません。
いずれにせよ、ロシア大統領プーチンによるウクライナの戦争は、戦場及び戦場になるのは、ウクライナ及びウクライナより西の世界であって、プーチンのロシアはどんな意味でも戦場になってはならないのです。それが、ウクライナ戦争のロシア及びプーチン大統領の論理です。ただし、何もそれは、ロシアのプーチンだけではなく、アフガニスタンでもイラクでもアメリカの戦争が同じ論理でした。そんな戦争を、何一つ痛痒なくやってのけるのが、ロシアでありプーチンであるとすれば、そしてその根底に「核兵器」も辞さないのであってみれば、今、仕掛けられて終りの見えない、ロシア大統領プーチンによるウクライナに対する戦争は、何を誇示しているのかも明らかです。
たった一つの命、たった一つの村のたった一つの積み上げられてきたかけがえのない生活を、顧みることをしない人間による、そのことに対する挑戦・愚弄する戦争なのです。
もしそうだとすれば、愚弄されているのは、「どれだけのウクライナ人が死に、心身に傷を負い、家族がバラバラになり、どれだけの家や村や都市が破壊されるのだろう。どれだけの老人が穏やかな老後を、子供が健やかな子供時代を奪われ、障害者や病人は命綱を失うのだろう」のウクライナではなく、生きて穏やかで健やかな日々を願うすべての人たち、そんな世界に対する挑戦・愚弄なのです。いいえ、そうして愚弄するロシア大統領プーチンと、それを容認してきた世界によって引き起こされてしまったのが、ロシア大統領プーチンのウクライナに対する戦争です。なのだと言えます。
新聞に、「我々が、プーチン氏がのちに侵略者になると気づくのが遅すぎたのです」という、米国務次官補(欧州担当、ダニエル・フリード)の見解が紹介されていました。「プーチン氏、予兆は15年前、『ぶち切れ』演説30分、侵略への足音」(8月29日、朝日新聞)。
たぶん、渦中にいてプーチンを見、「親衛隊士の日」を書いたりしていたウラジミール・ソローキン、に見えていたものを、世界が見えなかったのは、「無責任な西側の政治家、シニカルなビジネスマン、金次第のジャーナリストや政治学者の称賛」であったことによるのは間違いありませんし、「金次第」の新聞が、それ以上のことを言及できている訳でもありません。「亜鉛の少年たち」「セカンドハンドの時代」を書いていた、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチも「赤い人」については、理解はしていましたが、それが必ずしも十分ではなかったことを、「まるで『赤い人』は過去の話だと言わんばかりになってしまうと思って。でも彼らは消えてなどいなかった。現に目の前にファシズムが、ロシアのファシズムがちらついています」と言うよりありませんでした(ユリイカ、2022、07「特集、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチ」)。
(次週につづく)
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