(前週からのつづき)
もちろん、東電福島の事故対策として、「処理水」の処理も、「デブリの取り出し」も、不可欠です。しかし、不可欠であることと、それができるかどうかは別のことです。何よりも「不可欠」なのは、事実・現実を見すえ、たとえ小さな一歩であっても踏み出すことです。ところが、国・東電、原子力規制委員会、IAEAの「安全宣言」、そしてそれを「了承」する福島県・大熊・双葉町などは、「事実・現実を見すえ、たとえ小さな一歩であっても踏み出す」という、とっても解りやすい人間が営々として築き上げてきた「科学的」に思考するという歩みを逸脱してしまっています。
一方で求められるのは一つのことに挑み、その為の試行や、大きな壁にはばまれ実験と失敗の血のにじむような繰り返し、時に挫折もあって、しかし誰もが納得し得る成果ないし結果が得られるその為に、絶対不可欠な人としての営み、それが科学的思考です。もう一方で求められるのは、その営みの根底にあって、決してゆるがせないこととしての、「事実・現実を見すえた」踏み出しです。
たとえば「第六回福島第一廃炉国際フォーラム」の二人の高校生の質問が「科学的思考」であるのは、新聞の紹介を読む限り、事実・現実を「見すえ」とは行かないまでも、事実・現実に「気付き」発言しているという意味では、それを逸脱はしていないのです。素朴に(失礼な言い方になってしまいますが)、事実・現実に気付き、結果それを「見すえ」ているのです。なのに、「答え」はあまりにお粗末です。「…水道水に含まれる塩素に例え『濃度が低い場合は体内に入っても影響を与えない』」は、相手(高校生)が、放射性物質について「無知」であることを前提にした答え、と言うか、誰であれ一人の人格を持った人間であれば向い合うべき時の「科学的思考」を放棄してしまっています。塩素は、その科学的性質から人間の細胞・遺伝子に影響を与えるようには働きかけません。しかし、放射性物質トリチウムは、たとえ微力であっても人間の細胞・遺伝子に影響を与えることを「否定」できません。二つは、科学的には根本的に違うものなのです。「トリチウムは害があまりないとされるのに、なぜ問題になっているのか」は、トリチウムは塩素とは違い、たとえ微力であっても人間の細胞・遺伝子への影響が否定できないからです。
そんな答えをしてしまいますから、もう一人の高校生の「トリチウムを薄めても全量を放出してしまえば同じことではないか」の質問になります。「素朴」に科学的に思考すれば、そうなります。「原子力規制庁の金子修一次長」の答えは、とてもお粗末で、と言うか、トンチンカンです。「時間をかければトリチウムが半減期を迎え残量は少なくなる」はもちろんそうです。放射性物質は、環境中に放出された時、一切の人為的な「手立て」たとえば除去「除染」にはなじまないやっかいな物質です。唯一「可能」なのは自ら「半減」することです。トリチウムの半減期は約12年です。結果「残量は少なくなる」としても、放射性物質としての環境・人体への影響を全く「否定」することはできません。ですから、「トリチウムを薄めても全量を放出してしまえば同じことではないか」の質問は、その通りなのです。
更に「次長」の答えで自ら陥っている誤りというか自己矛盾は、海洋放出をするとしているのは「処理水」ではなく「汚染水」であるのを認めていることです。海洋放出しようとしているのは、放射性物質が処理できない「汚染水」なのです。更にこの「汚染水」に含まれているのはトリチウムだけではなく、他の核種も「処理不能」で残っている、正真正銘の汚染水です。
「科学的」にはそうなります。
ですから、「敢えて」処理水と言うなら、貴重な水のことですから、海洋放出などしないで、日常生活の生活水、飲料水として使ってもそんなに問題はないということになります。
かつて、ペットボトルに貼れる以下のようなラベルを提案してみました。
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