だれでも奴隷ではないからである ②
(前週よりのつづき)
朝、ベッドのうえで目を覚まし、昼、学校で学んだり職場で働いたり、夕方、家に帰って家族と食卓を囲んだり、街へ出て友人や恋人と遊んだりしたあと、静かに眠りにつく、そんなウクライナの大人や子どもの普通の暮しを一方的に破壊したこと、爆撃によって家を失い、警報が鳴るたびに地下鉄の駅に避難し、不安と恐怖で眠れない夜を過ごさなければならない状況を生みだしたことを、非難します。
世界中がコロナ禍に苦しむなか、ウクライナで感染をさらに拡大し、かつて大惨事を起こした原子力発電所から放射性物質がふたたび広範囲に拡散する危険をともなう戦争を起こしたことを、非難します。
サイバー空間で情報を流し、自国の政治的主張と軍事的都合に合わせて言論を操作し、歴史を悪用して、世界中の人びとの認識を歪めようとしていることを、非難します。
国内の自由な報道を大幅に規制し、戦争に反対を唱える声を暴力で封じ込めようとしていることを、非難します。
戦火を逃れる人びと、占領下での弾圧を恐れる人びとが、難民となる状況を生みだしたこと、故国の豊かな土壌に深く広く伸ばした根を断ち切られてさまよう人びとが、大国中心の国際政治のとり引きの材料として利用される可能性を生みだしたことを、非難します。
私たちは、困難な状況のもとで、自らの尊厳を守り、生きるために工夫をこらし、互いに助け合いながら、平和を希求するウクライナの人びとに、心からの連帯を表明します。
私たちは、激しい弾圧のもとで、さまざまなやり方で戦争に反対する声をあげ、ウクライナとの連帯を表現する、勇気あるロシアの人びとに、心から敬意を表します。
私たちは、ウクライナの人びとの痛みを自分たち自身の痛みとして受けとめ、この戦争に反対する声をあげる世界のすべての人びととの連帯を表明します。
2022年2月26日 自由と平和のための京大有志の会
「声明」の「朝、ベッドの上で目を覚まし、昼学校で学んだり職場で働いたり、夕方、家に帰って家族と食卓を囲んだり、街へ出て友人や恋人と遊んだりしたあと、夜、静かに眠りにつく、そんなウクライナの大人や子どものくらしを一方的に破壊したこと」、それは70年前の「台所のマリアさま」のマルタの生活そのものであったり、ユリ・シュルビッツの「チャンス/はてしない戦争をのがれて」(小学館)であったり、エーリッヒ・ケストナーの「終戦日記一九四五」(岩波)や、「エーリッヒ・ケストナー/こわれた時代」(クラウス・コルドン、偕成社)だったりします。
「大人や子どもの暮しを一方的に破壊する」戦争です。いずれも、はいずり回るように渦中で生きて、生きのびて書きしるされたという意味で、「当事者意識の減退と、関心の低下、そして倦怠」に、警鐘を鳴らし、心をゆさぶらないではおかない「報告」であり「物語」です。
「チャンス」は一人称で書かれており、「1939年9月1日、ドイツ軍の砲撃隊が、突然ポーランドの首都ワルシャワ上空を飛び、焼夷弾を落として町を灯の海にし、高性能爆弾で建物をふきとばした」で始まります。アフガニスタンで、イラクで、そしてシリア、今ウクライナで起こっている戦争です。ドイツに占領されたポーランドから、ソヴィエトに占領された「ユダヤ系」のシュルヴィッツの長い長い避難・逃亡の旅の物語が「チャンス」です。
(次週につづく)
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