「処理水海放出というまやかし」又は
「火のないところに煙は立たない」について ①
福島の地元の新聞の「論説」(福島民報10月20日)でも、東電福島の「処理水」の海洋放出のことが論じられています。
この「論説」が少なからず混乱している、ないしは混乱せざるを得ないのは、論説する前提の論理が崩れているからです。
まず、「論説」は、海洋放出するのは「福島第一原発の処理水」であるという前提になっています。で、論説はそれを海洋放出する場合の「風評防止」そして「賠償」へと話が進んでいきます。
しかし、「論説」の後半部分は「…国と東電が海洋放出を目指すのならば、国民の理解度をデータで示し、判断基準に用いるべきではないか」「賠償で解決しようとする姿勢が先にあるとすれば、原子力行政への信頼は得られまい」「海洋放出に伴う安全対策を丁寧に説明し、風評を必ず防ぐとの決意を前面に打ち出す必要がある」となっています。
東電福島の事故で発生する放射性物質を含む汚染水を、海洋放出するのであれば、言われている「データを示す」必要があります。その場合のデータは、科学的調査・分析にもとづいた客観的な数値を示すことはもちろんであって、海という生物界の連鎖の要である海に放出するのであるから、だから安全であるという論証は絶対条件です。
たぶん、言われているデータはそうした意味を持っているのだと思われます。もし、そうした対応、取扱いであれば、それこそが「処理水」ですから、「風評被害」が懸念されるなどということは、そもそもあり得ないことになります。しかし、言われているところの「処理水海洋放出」はそれが話題になる時には放出が始まる前から、必ず「風評被害」が問題になってきました。
られなくて、福島県沖などの広い範囲で、漁業ができなくなってしまいました。それは、事実として起こってしまったことであり、今日に到るまで「実害」となって、漁業者の生活を奪い続けてきました。放射性物質によって、一旦汚染されてしまった海は、容易には元の姿に取り戻すことができなくて、あるいはできないと判断されて、「福島の魚は汚染されている」という受け止め方を払拭するのが難しくなって今日に到っています。その場合の実害と風評は峻別するのが難しかったりするのは、それこそが放射性物質及びその被曝という判断その理解の難しいところなのです。問題は、そんなやっかいなものを環境中に放出する事故が起こってしまったことにあります。
大切なのは、そんな重大な事故が起こってしまっていることを受けとめるという当事者の理解なのです。
新聞の「論説」は、事故に対して真摯であろうとしているように読めなくはないのですが、その出発点において東電ないし国が「データを示し」という、事柄(東電福島の重大事故)に真摯である態度が示されない限り、海洋放出の理解は「全く広がっていない」「あまり広がっていない」であるのは、そもそも理解をしようにも、明確なデータが示されないからに他なりません。
たとえば、海洋放出するとされる「処理水」には、1リットルあたり約80万ベクレルの放射性物質トリチウムが含まれているとされ、それを1リットルあたり6万ベクレルに薄めるとしていますが、トリチウム以外の放射性物質が含まれていることが明らかになっています。
そうなると、1リットルあたり6万ベクレルのトリチウムに健康被害はないと明言されても、データがあいまいですから、説得力がなくなります。
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