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小さな手大きな手

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2006年06月03週
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 魔法で白鳥になった11人の「にいさんたちの魔法をとく」ために、エリザに求められた“勇気と忍耐”は生やさしいものではありませんでした。「白鳥」(アンデルセン作、マーシャ・ブラウン画、松岡享子訳、福音館)。にいさんたちの魔法をとく術を教えた妖精は「・・・海は、おまえのしなやかなゆびより、まだやわらかい。それなのに、かたい石の形を変えてしまう。それは、ほんとうだよ。でもね、おまえのゆびは痛みを感じるけれど、海は痛みを感じない。海には心がないからねえ。だから、おまえのように、おそれたり、苦しんだり、なやんだりすることもないんだよ。」「わたしが手に持っている、このイラクサが見えるかい?おまえが寝ているほら穴のまわりに、これと同じものがたくさんはえている。これと、教会の墓地にはえているのとだけが役に立つ。よくおぼえておおき。集めるのは、この2つの場所のイラクサなんだよ。つかむと手がひりひりして、水ぶくれができるだろうが、こいつを集めなきゃならない。それを足でふみつぶすと、亜麻糸がとれる。その糸で、よろいの下に着る、長いそでのついたはだ着を11羽の白鳥の上に投げかけたら、魔法がとける」(前掲「白鳥」)。
 イラクサのことでは、ちょっとした思い出があります。13~14年前に北海道紋別市元紋別の草鹿平三郎さんの牧場を訪ね、泊めてもらった朝、イラクサのおひたしとイラクサの入ったみそ汁をごちそうになりました。少しバサッとした感じのイラクサのおひたしも、イラクサの入ったみそ汁、大根の葉っぱのようでしたが、あじや香りの記憶は明確には残っていません。しょうゆやみそにはよく合って、たくさん食べさせてもらいました。そして、そのイラクサが生えている牧草地の小川に案内してもらい、自分でつんだイラクサをおみやげに持ち帰りました。その時に、草鹿さんにイラクサのトゲが刺さると、刺さった部分が“火傷”のようになると教えてもらいました。確かに、北海道の春の始まりの頃のイラクサの葉っぱ全体をおおう“刺毛”は、牙をむいていませんでしたが、片鱗をのぞかせてはいました。
 「白鳥」の、亜麻糸になるくらいのイラクサは、もちろん春先のそれではなく、十分に生長したイラクサです。ちょっと触れるだけで“手がひりひりして、水ぶくれができる”イラクサを、更に“それを足でふみつぶす”ことで亜麻糸にするのは勇気と忍耐があったとしてもたやすいことではありません。
 アンデルセンの「白鳥」の妖精は、“にいさんの魔法をとく”のに、イラクサをつかみ、イラクサをふむ勇気と忍耐は必要であるとは言うものの、エリザにそれを命令はしません。
 「・・・おまえのように、おそれたり、苦しんだり、なやんだりする」のが人であって、しかし人には、“おそれたり、苦しんだり、なやんだり”しながら、なおしなければならないことのあることを示します。
 アンデルセンの「白鳥」のような童話が、今も読む人をひきつけるは、人として為すに値することが、童話の語り口で素直にかつひるむことなく語られているからのように思えます。
 アンデルセンを、本気で読んだことはありませんでした。今、アンデルセンのいくつかの童話、「アンデルセン自伝/わが生涯の物語」(大畑末吉訳、岩波書店)や、「ハンス・クリスチャン・アンデルセン/その偉大な生涯」(ルーマ・ゴッデン著、山崎時彦・中川昭栄共訳、偕成社)などに目を通してみて、何よりも“人の生きる事実を描く”ことにおいてゆずらない人であったことに気付かされています。
 「『パンをふんだ娘』のようなぞっとする話、『影法師』のような悲惨な話は、子どもの目からはなしておいたほうがよいかもしれません。しかし、これらのよくない部分をけずったり、話を変えたりすることは、作品をだいなしにすることであり、汚すことでもあるといっても言い過ぎではありません。いちばん正しいやり方は、子どもたちを常に信頼することです」とアンデルセンとその童話のことで書いているのは、ルーマ・ゴッデンです。(前掲書)。
 

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