ロシア大統領プーチンによって始められたウクライナに対する戦争の、その最先端ではどんな戦争であったとしても、そして更に激しい戦争の最先端では、ウクライナとロシアの兵士たちの命が日々失われています。「…私は毎日、その日命を落とした若いウクライナ兵士の写真を数十枚、インターネットで目にします。実際はもっと多くの人数が亡くなっていると思いますが。ロシア兵の中には、自分がなぜ戦場に送られるのかわからないまま死んだ人もいるでしょう。ウクライナ兵は大義名分は自覚していますが、ロシア兵はそれすらわからないのです。私たちはいま、なんて大きな不幸を体験しているのだろうと思います」と「戦争の不幸」を語り、それが真に不幸であることも語っています。「…戦争が起きて真っ先に考えたことは、わたしは半分ウクライナ人ですから、ウクライナ人の母や愛する祖母がこの世におらず、戦争を見ずに済んで本当によかったということです」、そして別に、ジョージ・オウエルの「1984年」「動物農場」などをめぐり、「…今こそ重要な本であり、読むべき本だからです。しかし、多くの人が戦争の絶望感にとらわれ、理性を失っていて、全員がこういう本をよめるような状態ではないかもしれません。理解するよりも、愛するよりも、憎むほうが簡単だからです。でも、こういう時こそ芸術家の出番です。私たちが、憎しみでは世界を救えないと訴えていく必要があるのです。救えるのは愛だけだと」「幸せとは、愛です。人生を愛し、人生を喜び、子どもたちを愛することです。つまり、つねに愛があることです」(以上、インタビュー、スベトラーナ・アレクシェーヴィッチ、「『人間らしさを』を諦めないために」。聞き手、金平茂紀、沼野恭子、「世界、5月号」)。「『人間らしさ』を諦めてはなりません」戦争この状況にあっても「救えるのは愛だけだ」と訴え続けるアレクシェーヴィッチですが、もう一方で、この戦争の現実にも目を向けざるを得ません。「…指導者のメシアニズム(救世主信仰)的な計画によってロシアが主権国家ウクライナを攻撃したせいで世界がはまってしまった袋小路から抜け出すためにそれは唯一の解決策(ウクライナへの武器提供)だと思います。ウクライナは序章です。その先にはモルドバ、バルト諸国があります。ロシアのファシズムの計画は壮大です。その事を忘れてはなりません。ヨーロッパ諸国は、戦車や戦闘機を提供するかどうか議論に丸一年もかけている場合ではないと思います。もし、すでにウクライナに戦車と戦闘機があれば、わたしたちは今ごろ別の世界に、違う国に住んでいたかもしれません。現状は、恐怖におびえて生活しています」(前掲、「世界、5月号」)。けれども、その根底にあるアレクシェーヴィッチの理解は変わりません。「…私たちは人間を完全に矯正できるわけではありません」「…しかし、もし私たちが人間と話をすることを完全にやめてしまったらどうなるでしょうか?」。
こうして「人間と対話すること」は、ウクライナの悲惨な戦争を生きる、ないし命を奪われる人たちに止まるのではなく、広く、今を生きる私たちへの問いであることにもなります。
そして、受けとめて生きる人たち、生きようとする人たちは確実にいるのです。
6月23日は、沖縄戦から78年慰霊の日でした。「台湾有事」を更に敵基地攻撃力・兵器にまで実態化しようとする参列した首相は、広島で原爆の惨禍をサミットの演出の一つぐらいにしかしなかったように、沖縄でも現実に強化される米軍基地についてはなに一つ言及することはしませんでした。そうだとしても、沖縄では、戦争の惨禍を次の世代の子どもたちに伝え、そうして伝えられた子どもたちは、自分たちの言葉として伝えます。それが今年は平安名秋(へいあんなあき)さんの「今、平和は問いかける」となり、その詩は「…そして世界に届けて行きたい、平和を創り、守っていく、この沖縄の『チムグクル』を」と結ばれています。
(次週へつづく)
[バックナンバーを表示する]