(前週よりのつづき)
それはたとえば「人が共存の中に歓びを見出し」「人が共存のために愛すること」を何よりも嫌い罵倒することをいとわないトランプを大統領とする合衆国で、アレクシェーヴィッチが語るように「つねに愛があること」を、放棄せずに生きる人たちはいるようにです。
D.フロリダをはじめ、南部は抑圧された州なんです。権力者たちは、人々がリソースも知識も持たず、成長もせず、ただの機械の歯車になるように力を尽くしている。かなり酷い状況だし、デサンテムス(フロリダ州知事)は最悪だと思います。
N.恐ろしい時代だけど、僕たちのやっていることは重要かつ必要なことで、相手も僕たちを恐れている。
(対談、ダンティール・W・モニーズ×ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー、文芸2023年夏より)。
だからと言って、戦争の事態について、この戦争を、勝敗の決着を待つだけでなく、「交渉の勧め」が語られていない訳ではありません。以下、長くなりますが、ハーバー・マスの「交渉の勧め」(世界5月号、岩波)からの引用です。
この数カ月というもの戦線は膠着状態だ。例をあげれば、「消耗戦は、ロシアに有利」という見出しをつけて『フランクフルター・アルゲマイネ新聞』は、ドンバス北部のバフムトをめぐる、どちらも大量の犠牲者を出している膠着状況についての記事のなかで「あそこはヴェルダンのようだ」と言ったNATO幹部の衝撃的な発言を引用している。第一次世界大戦で最長の戦い、かつ最大の犠牲を払った恐るべき戦場とウクライナ戦争との比較はかなり無理があるが、それでも何らかの関連があるとすれば、戦線に大きな変化のないままに長く続く塹壕戦が、戦争の「有意味な」目標と比べるならば、何よりも犠牲者の苦しみを我々に痛感させてくれる点であろう。ウクライナへのシンパシーを隠さないが、もちろんなにかを美化するということもないソーニャ・ツェルキの戦場からの報告を読むと、実際に1916年の西部戦線のすさまじさを描いたさまざまな記述が思い出されることはまちがいない。「おたがいに喉元をえぐり合う」肉弾戦の兵士たち、死傷者の山、崩壊した住宅や病院や学校、ようするに文明生活のいっさいが抹殺された実態――ここにある戦争というものの核心である破壊を見ると、「我々の武器で生命を救っている」というドイツの外務大臣の発言は異様に見えてくる。
戦争の犠牲者と破壊自体が注目されるようになるとともに、戦争の別の側面が前面に出てくる。戦争はもはや残虐な侵略者に対する防衛手段というだけではなくなり、時間が経つとともに、戦争の経過そのものがなにもかもを踏み潰す破壊力と感じられるようになり、それとともに、できるだけ早く終わってほしいという声も出てくる。そして先の側面から後の側面に重心が移動するとともに、戦争はやってはならないという思いが重みを増してくる。戦争においては、相手に勝ちたいという思いには、死と破壊が終ってほしいという望みが必ず伴っているものだ。そして、武器が強力になるとともに、それによってもたらされる「荒廃」も激しくなるが、それにつれて、勝利と終結という二つの側面の重要度に変化が生じてくるものだ。
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