「この世の祈りは、みんな、ほんとうはいるのに見えなくなってしまったある概念のために・・・たとえば母にとっては父の中に見つけた理想男性像や・・・そしてなんだかとても悲しくなった」「そこにいるのに会えない理想のかたちを求めてはじまるのが祈りというものなら、人間はなんて傲慢なのだろう。」「そして感謝を捧げるのが祈りなら、人間はどうしてそんなに気楽すぎるのだろう」と書いていたのは、よしもとばななです(「なんくるない」新潮社)。
で、2006年7月1日の“ほしまつり”にあたって、星と祈りをテーマに“短歌”を作りました。
あの命 この命には 人の子の
祈りにも似て 星の輝き
幼子の たどたどたどし 歌の声
祈りとなりて あの星に届け
昨日泣き 今日生きて 明日の望み
渾身の祈り 響けよ星に
“あの命 この命には・・・”は、自分が出会ったどの命にも、言葉が届いて欲しいと願ったであろうことを、“祈りにも似て”としました。たとえば、15,16歳の子どもたち、大人及び大人社会には言葉も力も及ばず、必死で生きている存在を奪われたと思いこんでしまった時、・・・それはそれで身勝手であったとしても、言葉が届いて欲しいという願いは、祈りに似ているように思えます。そんな祈りが届かなかった子どもの悲劇、家庭の悲劇をまのあたりにする時、“・・・人の子の 祈りにも似て”と書かざるを得なかったし、なのに星は輝いているのは、空しいのかあるいは小さな希望であるのかは、断定しにくいのです。
“幼子の たどたどたどし・・・”は、たった一回耳にした歌を、たどたどしく自分のものとして歌って行く様子、それで言葉を獲得する様子に、幼子の成長を見ます。そして願わずにおれないのは、幼子の生きて行く世界が、その子たちを追いつめて行ったりしないことです。もちろん、ただ平穏であり得るはずはありませんが、未来や希望ということが何よりも幼子のものであって欲しいと願います。そんな切なる願いをもう一つ託するとすれば“あの星に届け”となりました。
“昨日泣き 今日生きて・・・”は、人の命が奪い去られる時のおぞましさに身を震わせ乾いた涙を流し、たあいもないことに一喜一憂し生きてしまうのは、しかし取るに足りない小さな自分を誇りに思うから。そして迎える明日は、ただやってくるのではなく、明日を行きたいという切なる望みで始まらなかったとしたら、生きていることはなんと軽いのだろうか。しかし人の命は軽んじられてはならないという願いは、かなえられないまでも渾身の力で祈り、誰も耳を傾けないなら、“響けよ星に”と書きました。
「・・・心身に深い痛手や傷を負ったひとびとは、あるいはその存在のうちに深い疼きを蓄え込んでいるひとびとは、癒しを、救いを、潤いを求めてきた。それはいまもむかしも変わらない。そういう癒しや救いや潤いがなぜ、今多くのひとにおいて、切々とした祈りの中にではなく、物や装置による疼きの瞬間的『解消』のなかに求められるのか」と書いているのは鷲田清一です(「時代のきしみ/〈わたし〉と国家のあいだ」、TBSブリタニカ)。
祈ってそれがこたえられる、こたえを期待して祈るのが祈りなら、ただ傲慢で、ただ気楽なだけです。「物や装置による疼きの瞬間的な『解消』」ではなく、人はなぜ切々と祈らなくてはならないのか。もし耐えられるなら痛みを耐え、心の疼きに翻弄されることを避けないとすれば、たぶん人は切々と祈るよりありません。そうすることが、生きるということの醍醐味であるのかもしれないからです。
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