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小さな手大きな手

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2023年12月04週
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 「クリスマス人形のねがい」は、人形のホリーと、アイビーのそれぞれの物語であり、ホリーとアイビーの出会いが起こる、クリスマスの奇跡の物語です。
 人形というものは、ただ人形であるだけでなく、子どもたちに抱いてもらう時にはじめて、ほんものの人形になります。
 こんな具合です。「…当然のことですが、おもちゃたちは、あなたたちとは反対に考えます。『クリスマスには、小さな男の子か女の子をもらえるのよ』…」。
 ブロッサムさんの人形・おもちゃの店に並べられたホリーはしかし、クリスマスの前の日のぎりぎりになっても、子どもをもらえなくて、売れ残ってしまいます。
 アイビーは、「セント・アグネスという名前の、大きな家」で、30人の子どもたちと暮していました。その子どもたちは、クリスマスの3日間「…ご親切なおばさまやおじさまが」あずかってくれるのですが、アイビーだけが残ってしまいます。
 そのアイビーが、クリスマスの前の日に一人旅を始めることになります。そして寒い冬の寒い夜を迎えることになってしまいます。
 そんなホリーとアイビーでしたが、それぞれの名前が「ホリー」と「アイビー」でしたから、その名前に秘められたクリスマスの意味に、それぞれの決して願うことのない「願い」は、実現することになりました。ルーマ・ゴッデンの、長い長いクリスマスの物語で、「願い」が実現するのは、たやすくはないこと、しかし、一つ一つ起こるべくことがつながると、実現しなくはないことを、長い物語で「証明」してみせます。長い物語は冗長ではなく、必然はただ必然ではなく、一つ一つのていねいな物語のつながりで初めて起こることなのです。
 「山のクリスマス」は、雪の深い山の人たちの生活を、いっぱい描いて、そんな山の人たちの中に実現している、人々の生活の中のクリスマスがていねいに描かれています。
 「グレイラビットのクリスマス」のクリスマスは、こまどりのロビンが運んできた、もぐらのモールディの招待状、「…今夜、来てください。モールディ・ワープより。あいをこめて」という素敵な言葉、グレイラビットたちの「ありがとう、モールディさま。よろこんで」の応答、そのパーティには「とりやうさぎなどの小さな生きものたちがたくさんあつまっていました」。そして実現します。その時のモールディの用意したツリーは、ただの飾りではなく、グレイラビットが「…まほうの木よ」という、枝の一つ一つ、そして木の下には、いっぱいの喜びが用意されていました。「…木の枝の一つ一つにはローソクがぶらさがっていて、ほのおをだして、もえています。その木の下には、はしばみの入ったうつわ、パン、ケーキ、とうもろこしのふくろなど、どっさりおいてあります。指ぬきぐらいの大きさのはちみつ入れや、ヒースのかおりのビールもあります」という具合に、たくさんの生きものたちが出会って喜びをわかち合うことが、グレイラビットのクリスマスなのです。
 「とってもふしぎなクリスマス」は、「ずっとむかし、岩間の村に、たいへんびんぼうなくつやがすんでいました。おくさんは死んでしまい、あとにフリッツル、フランツル、ハンスルという、3人の小さな男の子がのこされました」、それはそのくつやの一家のクリスマスの物語です。「びんぼう」というのは、生活のすべてにおいて、とことん人間を貧しくしてしまわずにはおきませんが、ルース・ソーヤと、バーバラ・クーニーは、このびんぼうな一家の中に、いい言葉といい表情の人たちを描き込みました。たった一切れのパンと、たった一杯のスープが、うれしくていい言葉といい表情の家族として実現するのです。
 「…おとうさんは、小さな3人のむすこをテーブルにつかせて、みんなでおいのりをあげると、わらいながら手をたたいてさけびました。おどりまわることさえありました。『さあさあ、きょうはおいしいものがあるよ…なんだろう?そう…きょうのごちそうは…シュニッツル、シュノッツル、シュヌーツル!』」。もちろん「びんぼう」を生きることはたやすくはありません。ただ、こんなお父さんを描く物語、クリスマスの物語は、たった一瞬のクリスマスの物語との出会いであっても、その一瞬をしのぐ力にならなくはないのです。ルース・ソーヤやバーバラ・クーニーが信じたのは、物語、言葉と絵の力だったように思えます。
 「クリスマスまであと九日」は、メキシコの人たちの生活につながって根づいた、クリスマスの物語です。ポサダは、子どもたちが生活する過程で、いくつかの区切りを経て、大人になって行く時に通過する、必要な儀礼の一つです。その時に、その通過儀礼の主人公になった子どもの、その子の選んだピニャタが割られます。自分の選んだものが割られる、否定されるのはセシの場合は耐えられないことですが、割られてしまいます。ただ、「無闇」に割られてしまうのではなく、クリスマスを迎えるその時に、ポサダを迎え、ピニャタが割られてしまうのは、カトリックのメキシコの人たちの、子どもたちに注ぐ知恵のように思えます。力ずくで、その境を越えさせるのではなく、うれしく迎えて、少なからず残酷にそれを壊すことで、子どもたちはそれを受け入れることが可能になるのです。形ばかりの「儀礼」としてあるのがポサダではなく、成長するとは何かを深く洞察したメキシコの人たちが作り上げた、子どもたちの成長への応援なのです。そんなことを、少なからず長い物語をつないで、語り聞かせるのが「クリスマスまであと九日」です。
 「サンタクロースって ほんとうにいるの」という、ある時期、ある年齢になった子どもたちの中にわいてくる、真剣で深刻な問いに、逸らすことも的を外すこともなく答えたのが、てるおかいつこと、すぎうらはんもの絵本「サンタクロースって ほんとうにいるの」です。
暉峻逸子は、経済学を専門とする研究者ですが、その課題の基本的データーをもとに、たとえばあってはならない「格差」をきちんと論究したりすることを、研究の主題と考えてきました。そんな暉峻逸子のサンタクロースは、当然と言うか、もちろんと言うか、子どもたちにとって「その人」がいるかいないかと言う、真剣で深刻な問いに、明解に答えます。もちろん、「その人」の存在は、誰も証明できません。かと言って、「その人」への期待は、時には子どもたちにとって絶大です。どんな意味でも裏切ってはならないのです。その難しい課題に、逸らすことなく答えました。
 ただ、問答としてうまく答えたということではなく、一方で、サンタクロースについてのそれを訪ねる研究があって、もう一方で、子どもたちに対する大人としての向いあい方において、信頼に足る人間としてその前に立つ責任と覚悟において本気なのです。
 結果、子どもたちはただ、「その人」のことを信じるのではなく、心の中に、「その人」を置く場所を残す一人の人間としてゆとりを育て身に付けることになるのです。
 それは足りないながら紹介することになったクリスマスの絵本に共通しています。

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