思てぃ通らな通信143
2023年12月17日
2014年の夏、まだ海底のボウリングをしている時、カヌーメンバーに加わり、阻止しに行った。辺野古の海に土砂投入がなされた時も、海上に居た。
米軍基地キャンプシュワーブは国道329号線を跨ぎ、海岸にまで達しているが、更に、海岸から50mほどは米軍提供の海域となっている。 政府は辺野古に新基地建設が決定されてから、臨時的制限区域と称して、更にずーっと沖合を浮き輪(フロート)で柵を作り、抗議船やカヌーなどが入らないようにした。これは議会で審議して設定したものではなく、閣議決定できめたものである。我々は臨時的制限区域に、最初はおそるおそる、のちには、大胆にそのフロートを越えて作業船に向かって行った。すると、我々の周りにうろついていたゴム―ボート(GB)に乗った海保たちが我々を拘束しに来る。フロートを越える度、海保に拘束された。素直に拘束されたのではなく、なぜ拘束するのかと抗議した。彼らは無言であったり、我々の安全のためと言った場合があったが、違法だからと言った場合もあった。私は違法なら逮捕せよと迫った時があるが、逮捕はしなかったし、出来なかった。闘いの初期はバトルで、抗議船はひっくり返されたり、カヌーの仲間は怪我をさせられ、また海水の中に顔を押し込まれた女性もいて、その乱暴なやり方に裁判に訴えた。中でも海保太郎と名乗った隊員には中城海上保安部へ抗議に行った。そんなためか、海保に隊員の入れ替えがあったと思え、あのような乱暴な隊員は少なくなっていた。
それが最近からまたおかしくなった。私が陸での闘いに切り替えた後であるが、2021年4月15日、工事護岸に向かって漕ぎ出したカヌー9艇の内、千葉さんの漕いでいるカヌーに、海上保安庁の高速ボートが猛スピードで突進しぶつけた。千葉さんは胸部打撲、頭部座礁、頚椎損傷の傷害を負った。海保側からなんら謝罪もないため、7月30日に提訴を行ったが、海上保安庁は「軽微な接触があった」との弁明であった。ぶつけられる瞬間の映像がある。よくぞここまでウソを言い張るなあと怒りを覚える。
去った12月10日に12回目の裁判が行われたが、いつものように書面のやりとりで、証人尋問にまだたどり着いていない。このような遅々たる裁判闘争の中で、再び海保による千葉さんへの攻撃が行われた。
今度は2022年11月、フロートの外で写真を撮っていた千葉さんめがけてGBが突っ込んできた。千葉さんは避けきれずぶつけられたが、頚椎捻挫の負傷である。まかり間違えば死ぬところであった。この件は、那覇地検に告訴状を出したが、不起訴処分にされた。今は検察審査会に提訴しているが、まだ結論が出ていない。
2度にわたる個人への攻撃など、2014年15年の運動の集中と高まりの時は決してこのようなことは許さなかったはずだ。あの時は、海保が我々を拘束し、闘いの現場から引き離し、辺野古の浜で解放しようとして浜に近づけば、陸で闘っていた市民が海保に抗議したものだ。海保は浜に近づけず、沖で我々を解放していた。
かつて、辺野古での闘いで指揮をとっていた山城博治氏は、一人でも拘束者がでたら闘いを一時ストップしてでも、仲間を取り返そうと言った。
今も、辺野古ではその気持ちを持って闘っているが、沖縄本島だけでも数えると、安和、塩川、遺骨混じりの土砂、中城の弾薬庫基地化など闘う場がひろがり、仲間を取り返しに、或いは抗議に、裁判にはそれぞれの近い仲間が中心になって行うという状況に追いやられている。県民だけではもう手一杯。でも抗議の声が小さいと、海保の暴力は続く。12月8日も女性2人に怪我を負わせた。
故高垣さんが辺野古ゲート前でよく歌っていた歌を思い出した。
いかなる弾圧が 度重なるとも
われらの友情は 永遠に変わらず
海や森 空も澄めば
わが心は やんばるの地に
「心さわぐ青春の歌」の辺野古版
富樫 守
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