(前週よりのつづき)
・「『武力攻撃』沖縄12万人避難想定」
・「最短日で九州・山口へ、輸送や施設、課題山積」
・「政府、受け入れ県に計画促す」
「…中国が台湾に侵攻する『台湾有事』の懸念が語られるなか、政府が国民保護法に基づき『武力攻撃予測事態』を見すえて沖縄県全域を『要避難地域』にする想定。石垣市や与那国町など先島諸島の5市町村の住民約11万人と観光客ら約1万人を九州・山口の8県に避難させ、沖縄本島等の住民約130万人を屋内避難させるものだ。先島諸島5市町村や自衛隊、内閣官房などが参加した」。
ただ、この「沖縄12万人避難想定」や「図上訓練」は、それが「想定」されている沖縄の人たちにとっては、どんな意味でも想定したくないし、そもそもが全く「現実味」がとぼしいと言うよりありません。「有事」「戦争」がそこに及んだ時、失うないし壊されてしまうものは、どんな意味でも取り返しようがないのは、その沖縄の「当時者」であることを、想定したり、図上訓練をうながす人たちは、全く考慮していません。沖縄の人たちに限らず、他の誰てあっても、長い生活の歴史で一つ一つ築いてきて今、失いたくないのは自分たちの日常です。
だとしたら、避難想定や図上訓練ではなく、それが起こらない為にこそ、全力を注ぐことが求められるはずです。もし、それが、沖縄の人たちだけではなく、自分たちに及ぶとしたら。なのに、言わばのん気に、避難想定や図上訓練を言う人たちには、そんなあたりまえの想定も欠けているだけのことです。
…そうなのですが、たとえば、能登半島地震から1カ月、被災地、そして被災した人たちの避難生活、その現状やこれからが見通せない状況も伝えられています。更に、「支援」が行き届かない。今までの生活を「断念」せざるを得ない人たちの悲痛な叫びも聞こえてきます。生きていた現在を断念してしまう時、当然、それに繋がらない生活は、難しくならざるを得ないのです。
「避難想定」や「避難訓練」の、想定や訓練は、何とかなる、いいえ何とでもなります。しかし、「戦争」の避難、訓練は、どんな意味でもたやすくはありません。
ウクライナやガザがそうであるように、それは破壊そのものであり、始まってしまった時、簡単には終わりません。始まるのは時には偶発的であっても、現実に起こっている破壊や殺し合いは、そこに渦巻くことになるのは、終わることのない増悪です。元に戻す、ないし戻るというのは、想定や訓練をはるかに超えてしまう、たぶんそれが戦争です。「有事」などという言葉をもて遊んで済むことでは無いのです。
なのに、沖縄の人たちには、そこに、その事態に身を曝すことが求められています。
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