かつて、靖国神社を国営化する計画がありましたが、実現には至りませんでした。
“宗教色を無くするないしは薄める”という案には、靖国神社側が納得しませんでしたし、一宗教を国営化することには、幅広い反対の意見もありました。靖国神社がそんな具合に話題になり、今も話題になるのは、日本の戦争の犠牲者がそこには祀られているからです(祀られていることになっているからです)。ただし、戦争の犠牲者は誰でも祀られるという訳ではありません。たとえば明治維新の戊辰戦争の会津・長岡藩などの戦死者は祀られていません。同じように、西南戦争の鹿児島軍側の戦死者も祀られていません。アジア・太平洋戦争の沖縄戦の住民の戦死者も祀られていません。
その靖国神社に極東軍事裁判のA級戦犯が“合祀”されたのが1978年です。祀られる戦死者がいて、祀られない戦死者がいる靖国神社に、アジア・太平洋戦争の極東軍事裁判のA級戦犯を祀るのは、それなりの判断と意図があります。極東軍事裁判でA級戦犯として裁かれ絞首刑になった東条英機らの戦争責任は問わないというのがその判断であり意図です。昭和天皇は靖国神社にA級戦犯が“合祀”されることになった1978年以降参拝しなくなり、1989年に亡くなりました。
つい最近、亡くなる1年前の1988年にA級戦犯の“合祀”についての発言メモが発見されることになりました。「当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が発言をメモに記し、家族が保管していた」(2006年7月20日朝日新聞)。「私は或る時に、A級が合祀された上、松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と、松平は、平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている、だから私あれ以来、参拝していない、それが私の心だ」(前掲発言メモ)。
昭和天皇の大東亜戦争(アジア、太平洋戦争)の“宣戦布告の勅語”で「・・・朕が陸海将兵は全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々その本分を尽くし、億兆一心、国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺産なからしむことを期せよ」で戦争は始まり、およそ4年近くの戦争での戦死者は“朕が陸海将兵”だけでおよそ240万人です。戦争が敗戦に終わり、昭和天皇としては最後となった「日本国憲法公布記念式典の勅語」で「・・・即ち、日本国民は、おのずから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序を基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基づいて国政を運営することを、ここに明らかに定めたのである。朕は、国民も共に、全力をあげ、相携えて、この憲法を正しく運用し、節度と責任を重んじ、自由と平和を愛する文化国家を建設するよう努めたいと思う」とその思いを述べています。ここで言っている「全世界に、正義と秩序を基調とする永遠の平和を実現することを念願し」は、という“理想”ではあるのですが、少なからず本気で言っているように読めます。それは今回発見されたメモの、“松平は、平和に強い考えがあったと思うのに”の平和と、どこか通じるものがあります。
で、今回発見された昭和天皇の発言メモについて、小泉首相は自らの参拝に影響するかどうか問われ、「・・・これはありません。それぞれの人の思いですから。心の問題ですから。強制するものでもないし、あの人があの方が言われたからとか、いいとか悪いとかいう問題でもない」と“影響を否定”しています(7月21日朝日新聞)。そして「お気持ちはよくわかります」「(A級戦犯には)気の毒な立場に立たされて無理やりされた方もいるし、明らかに戦争の責任者もいる」「私は今年も行きますが、戦争の責任者だと思っている人間を祈るつもりは毛頭ない。その者らは心の中で無視して参拝します」と言っているのは、石原東京都知事です。
人間になったとは言え、その人の存在や言葉の重みを、誰よりも受けとめる立場のこの国の首相は、ただの人のただ思い程度にしか、その人の発言を聞こうとしません。平和に強い関心があるということにも心を配ったりしません。この国の首相のような人が、昭和天皇の発見されたメモで言う「・・・親の心子知らず」そのまんまの人なのです。
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