(前週よりのつづき)
いいえ、共有できなかった訳ではありませんでしたが、すべてを「あからさま」にするという、あるべき道は、必ずしも選ばれませんでした。
なぜなら、放射性物質を、完全に管理して、それを使うという技術は、どこまでも人間の技術である限り避けられない不完全さを認めることになってしまい、結果的には、それを稼働させて発電させるという技術そのものを断念・放棄するよりなくなるからです。しかし、当然あるべき、断念・放棄ではなく、いくつかの技術的手段を前提に、しかし不完全を承知で、稼働させることになってしまいました。
たとえば以下に示す数字は、技術には完全はあり得ないことを示しています。しかし、たとえたったこれだけの数字・確率であっても、それが起こり得ること、起こった場合は「お手上げ」であることは明らかでした。そして、結果的に起こる、放射性物質の環境への放出も、同 滋養に「お手上げ」であるのが、放射性物質なのです。
が「お手上げ」であり、対策も「お手上げ」だからです。
だからと言って、こんな明らかな事実を事実として認めようとしないで、とことん値切って実施されているのが「補償7.9兆円」です。
放射性物質の人体への影響については、東電福島の事故までは、それなりの基準もあり、かなり厳格に守られてきました。それを日常的に取り扱う場合も、そこでの飲食などは厳しく禁止されていました。内部被曝は軽視してはならないと考えられていたからです。また、年間の被曝線量についても、1m㏜/年以下となっていました。東電福島の事故の後になって、たとえば子どもたちの被曝についても、20m㏜/年でも、「安心」であるとされました。
たとえば、「補償」についても、こうして新たに設けられた線量によって、避難の区分が決まり、それに基づいた「公的」な避難についての補償はあっても、本来の被曝線量をもとに避難する、たとえば自主的な避難は補償の対象にはなりませんでした。
そして、少しずつ進む「除染」と、その範囲の広がりの中での避難解除、「復興拠点整備」など、「復興」を鼓舞する言葉の乱発で、帰還困難区域なども放射線量は横において、帰還の対象区域になり、帰る人たちも補償の対象から外されることになりました。
補償が本来の意味での、失ったものを補償するのではなく、要するに放射性物質の被曝の危険への補償ではなく、その責任を限りなく軽くする為の補償なのです。
(次週につづく)
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