61年前、敗戦の年の8月23日、スターリンの日本軍捕虜をシベリアに連行するという指令で、約60万人の日本兵・軍属がシベリアに拘留され、寒さと飢えの中で過酷な労働を強いられることになりました。結果、栄養失調などの死者は約6万人です。この事の補償について、1956年の日ソ共同宣言で日本は請求権を放棄しましたが、代わって日本政府が抑留者の強制労働に対する補償をしたりはしていません。(2006年8月23日、朝日新聞。シベリアの強制収容所については、ソルジエニツインが自分の“囚人”としての体験をもとに「イワンデニソビッチの1日」で克明に描いていた。石原吉郎は「望郷と海」で、1953年まで9年間の“囚人”としての強制収容所での絶対的な食料の不足による飢餓、収容者同士の敵意、氷点下40度に近い極寒、過酷な強制労働、粗暴な囚人管理などの事を書いている。やはり、3年近くの“捕虜”としての叔父のシベリア抑留を子どもの頃直接聞いていた。)広島、長崎などの原爆被災者の補償問題も敗戦から61年経た今も国と被災者の間で争われています。中国残留孤児の問題は、日中両国にわたり困難な生活の現実を当事者に強い続けています。沖縄で闘われた戦争、戦後の沖縄の米軍基地の問題は現在も進行中です。
日本国憲法や教育基本法は、敗戦によって生まれこの国及びこの国の人々の生き方に大きな影響を持ってきました。これを無かったことにしようとする働きはあったにしても、戦争とその結果の惨劇を忘れてはならないとする、この国及びこの国の人々の未来を指し示してきたのが日本国憲法や教育基本法でした。
その日本国憲法の“要”の部分を改めることを政権の公約にする人がこの国の首相になろうとしています。
戦争をしてきた国、戦争をする国は、その為に戦場に送り出したその人にその戦争の責任の一切を取らせます。約60万人のシベリアに拘留された人々の場合も例外ではありませんでした。そうであった戦争の責任を明確にし、未来への理想と希望をたくした日本国憲法や教育基本法から、その理想や希望が消し去られようとしています。それをよしとする人たちがこの国では増えつつあります。
忘れてはならないし、肝に銘じなくてはならないのは、戦争というものに踏み込んでしまった時、その責任のすべてを一身と背負うことになるのは、その担い手になって戦場に行ってしまった人たちであり、その家族であることです。
譲ってはならないし、赦してはならないのは、日本国憲法や教育基本法に込められたこの国及びこの国の人々の理想や希望が踏みにじられることです。
そんな願いを込め、「われら、さきに、日本国憲法を確定し/ソウル・フラワー・モノノケ・サミットライブ」を計画しました。
ぜひ、実行委員の一人になって下さい。
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