“王様”が隠退することになり、新しい王様候補の本命と言われる人の発表した政権構想の要旨を読みました。
「政権構想は、『政権の基本的方向性』として?新たな時代を切り開く日本にふさわしい憲法の制定?教育の抜本的改革?イノベーションによる経済成長・・・など4分野13項目を挙げた。これに基づき『主張する外交』など6分野で具体的な政策を示し、首相官邸主導体制の確立、行政機構の抜本的改革・再編、学校・教師の評価制度導入、米欧豪印との連携などを揚げている。靖国問題は盛り込まなかった」などと言っています(2006年9月2日、毎日新聞)。今までの王様がそうであったように、新しい王様候補の政権構想にも、王権を握る人としての思想を読み取ることができないように思えます。
古代イスラエルのダビデ王の後の王になったソロモン王は、自らの王権を固める為、徹底して政敵を殺害し、追い払ってしまいます。更に、神殿建設の為、人々に途方もない犠牲を強いたりもします。ソロモン王の後を継いだその子レハベアムは、人々に「・・・父上はわれわれのくびきを重くされましたが、今父上のきびしい使役と、父上がわれわれに負わせられた重いくびきを軽くしてください」と言われたりするように。(列王紀上12章4節)。こんな言葉のままの王であったのですが、全く神を恐れなかったという訳ではありません。神もまた、ソロモン王が“強制的に労働者を徴募”して建設された神殿を献げられるにあたって、「・・・わたしはイスラエルを、わたしが与えた地のおもてから断つであろう。またわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げすてるであろう」と厳しいのです。(列王紀上9章7節)。
この国の新しい王様候補の政権構想の表題は「美しい国、日本。」なのだそうです。日本は美しい国です、美しい国でした。美しい国、日本はいろいろ疲れていなくはありません。いいえ、大いに疲れているように見えます。“美しい”は、四季の変化などの自然の営みだけではなく、人の心の美しさにも負けないくらい関わっています。その場合の人の心の美しさは、人が人に関心を寄せたりすることでもあるのでしょうが、たとえばそのことが希薄になってしまっている現実はこの国にとってかなり深刻です。全く逆に、人がひとを過剰に恐れざるを得ないのも同じように深刻です。政権構想では決して語られることのない、60年前の“敗戦”によって、この国の人たちは多くのものを失いました。生き残って、必死に生きて働いて少なからず豊かになったにもかかわらず、この国の人たちは多くのものを失ってしまいました。豊かになったのに、人が人に関心を寄せることが希薄になるという、貧しい現実をこの国の人たちは生きてしまっています。これは、何よりも人が人であることの難しさに起因しています。人を生きるということは、とても難しいことなのです。ソロモン王について記述する旧約聖書の文書は、少なくとも人を生きることの難しさの意味を見つめて、ソロモン王のことを記述しています。たとえば、王様候補の政権構想のどこにも、権力を握ることになる自分の、人としての生きることの危うさを読み取ることは出来ません。全く逆で、日本国憲法前文のことを平気で揶揄したりします。60年前、日本国憲法の前文に、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」したのは、人が人であることの難しさ、人として生きることの危うさを、身にしみた結果の言葉です。その程度のことが読みとれないで、「21世紀の日本の国家像にふさわしい新たな憲法制定に取り組む」と、王様候補は言ってはばかりません。そもそも、現行の日本国憲法は、“日本の国家像”をあらわすものとして制定されたものではありません。全文で、“日本国民”という言葉が繰り返されるのは、主権は国民にあることを、この国の一人一人の人がいかに生きるかを、言葉を尽くして追求しようとしたのが、日本国憲法です。それが国民主権であって、まず国家像を描こうとしたのではありません。と平気で言えてしまえるのも、権力を握ることになる自分の、人として生きることの危うさを見つめることをしない結果のように思えます。
というような王様を、2代にわたって生み出してしまうのだとすれば、危ういのはこの国の人たちかも知れません。
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