「論語」は、その多くが孔子と弟子たちとの対話によって成り立っています。中でもよく登場するのが子路(季路、仲由)です。子路について「政事では冉有と季路」と孔子は評価していますが、少なからず乱暴であるあたりについては、繰り返したしなめています。「『害を与えず求めもせねば、どうして良くないことが起ころうぞ』子路は生涯それを口ずさんでいた。先生(孔子)はいわれた、『そうした方法ではね、どうして良いといえようか』」(「論語」巻第五、二一)。“訴訟”についての以下の言及は、子路と孔子との違いなのですが、たぶん子路はこの違いを理解できませんでした。「子の曰(のたま)わく、片言以て獄(うった)えを折(さだ)むべき者は、其れ由(仲由)なるか。子路、諾を宿むることなし」。「子の曰わく、訟(うった)えを聴くは、吾れ楢(な)お人のごときなり、必ずや訟え無からしめんか」(「論語」巻第六、一二、一三)。違いはあったし、理解もできませんでしたが、子路は生涯孔子を心から慕い続けました。孔子はといえば、言動にがっかりすることの多かった子路ですが、避けることなく徹底して相対するのです。
そんな子路と孔子の物語が、中島敦の描く「弟子」(全集3、ちくま文庫)です。「魯の下(べん)の游侠(ゆうきょう)は子路という者が、近頃賢者の噂の高い学匠・陬人(すうひと)孔丘(こうきゅう、孔子)を辱めて呉れようものと思い立った。似而非(えせ)賢者何程のことやあらんと、蓬頭(ほうとう)突鬢(とっぴん)、短後(たんこう)の衣という服装(いでたち)て、左手に雄鶏、右手に牡豚を引提げ、勢猛(いきおいもう)に、孔子が家」に押しかけます。で、仕掛けた問答にあっけなく敗れ、押し掛けの弟子になります。弟子となった子路に、孔子はほとほと困ることもありますが、それなりに高く買ってもいました。「孔子は孔子で、この弟子の際だった馴らし難しさに驚いている。単に勇を好むとか桑を嫌うとかいうのならば幾らでも類はあるが、此の弟子程ものの形を軽蔑する男も珍しい。究極は精神に帰すると云いじょう、礼なるものは凡て形から入らねばならぬのに、子路という男は、その形から入って行くという筋道を容易に受け付けないのである」「孔子は此の剽悍(ひようかん)な弟子の無類の美点を誰よりも買っている。それは此の男の純粋な没利害性のことだ。この種の美しさは、この国の人々の間に在(あ)っては余りにも稀なので・・・」(「弟子」)。たとえば、孔子と子路との違いについて、「弟子」では、こんな風にも描かれています。「『人臣の節、君の大事に当たりては、唯力の及ぶところを尽くし、死して而して後に已(や)む。夫子(孔子)何ぞ彼を善しとする?』孔子も流石に之には一言も無い。笑いながら答える。『然り。汝の言の如し。吾、ただ其の、人を殺すに忍びざるの心あるを取るのみ』」(「弟子」)。
孔子によって、“おまえは政事向きだ”と評価された子路は、孔子のすすめもあって、“衛”の国に仕えることになりました。しかし、その衛の内紛にあたり、捕らえられた自分の主人の孔理を救い出す為に、その場に一人で乗り込んで行きますが、遂にはそこで打ち殺されてしまいます。「・・・敵の刃の下で、真赤に血を浴びた子路が、最後の力を絞って絶叫する。『見よ!君子は、冠を、正しうして、死ぬものだぞ!』・・・全身膾(なます)の如く切り刻まれて、子路は死んだ」(「弟子」)。孔子は、この弟子のそうなるべくして死んだことを悲しみます。「・・・老聖人は佇立瞑目すること暫し、やがて潜然(さんぜん)として涙下った。子路の屍が醢(ししびしお…塩づけ)にされたと聞くや、家中の塩漬類を悉(ことごと)く捨てさせ、爾後、醢は一切食膳に上さなかったということである。」(「弟子」)。
それが実行に移されないと気の済まない子路、時に選ぶこと相手を見極めることから始める孔子、この二人の溝は、出会ってから40年経っても埋まりませんでした。
孔子は時に子路を厳しく批判します。しかし、「林放、礼の本(もと)を問う。子の曰く、大なるかを問うこと。礼はその奢(おご)らんよりは寧(むし)ろ倹(けん)せよ。喪は其の易(おさ)めんよりは寧ろ戚(いた)め」(・・・お葬いには万事ととのえるよりは、むしろ、ととのわずともいたみ悲しむことだ)と言ったりする孔子は、その心では子路と深く相通じるものはあったのです。
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