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2006年10月02週
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 「神も仏もありませぬ」(佐野洋子、筑摩書房、2003年)という、どうやら宗教の外にいるらしい人からの指摘に出会って、少なからずムキになって宗教(“神も仏も・・・”の神)というものを考え込むことになりました。


 宗教を本気でしていなかった訳ではありません。キリスト教という宗教の“牧師”という肩書きで、30年宗教を仕事として生きてきました(日本基督教団の規則上の“資格”は30年来ずっと補教師、言ってみれば“半人前”の牧師ということになっている)。


 10代の後半にキリスト教と出会い、それを学んでみたい、それを生きてみたいと本気で願いもしました。生きてみたいと願って、一歩足を踏み入れてみて知ったのは、その宗教なるものが良くも悪くもすぐれて人間的な営みであるらしいことでした。で、少なからず挫折というものもありましたが、それを捨てるということにはなりませんでした。というか、そうして志したはずのことで、母や父を裏切りたくない程度で、挫折を引きずりその世界を生き続けたという方があたっているかもしれません。大上段にではなく、さり気なくキリスト教という宗教の中に身を置いてきました。そんな具合でしたから、教理や規則をかざしてキリスト教を語るということをしませんでしたし、できませんでした。


 属している宗教団体、日本基督教団は“教師”について、以下のように規定しています。「教会は主の日ごとに礼拝を守り、時を定めて聖礼典を執行する。礼拝は讃美・聖書朗読・説教・祈祷および献金等とする。聖礼典はバプテスマおよび聖餐であって、按手礼を領した教師がこれをつかさどる」(教憲第8条)、「本教団の教師は、神に召され正規の手続きを経て献身した者とする。教師はこれをわけて、正教師および補教師とする。正教師は按手礼を領した者、補教師は伝道の准允を受けた者とする」(教憲第9条)。この規定によれば、補教師には幾つかの制限があって、本物の牧師とは見なさないことになっています。というか本当に、本物の牧師ではないと言われることもありました。そんなことにはお構いなしに、“按手礼を領していない”“補教師”のまま、教規に違反してバプテスマおよび聖餐をつかさどってきました。ただ、この場合の教規違反に罰則規定がなかったりするのは、しょせんは人の定めた規則を神の定めた規則として“信じる”ことについて、人としての謙虚さがあってのことのように思っています。そんな具合で、補教師として本物とは見なされないまま牧師をするにあたって、神と人の前で誰にも負けないくらい謙虚でありたいと願ってそれをしてきました。


 とはいうものの、人の定めた規則を神の定めた規則だと、固く“信じる”人たちにとって、その場合の規則違反は許し難いものとして見られてきました。今、そのことでは別の“白熱”した議論が交わされたりもしています。


 しかし、そうなのだろうかと思ってしまいます。たとえば神は、上記のような教理、上記のような規則の中に収まってしまうほどささやかな存在なのだろうか。無規則、無秩序でいいと言いたい訳ではありません。神は、上記のような教理、上記のような規則を何が何でも押し付けずにはおかないほど狭量でないはずです。


 たとえば神は、人の営みの一切を引き受け、お節介かもしれないが寄り添ってみようという、懐の深さを持ち合わせていないのだろうか。この世界で了解されている宗教の役割に“教誨師”という仕事があります。それが死刑囚である場合、刑罰を受け入れ死んで行く心の準備に協力するのが、その場合の宗教の役割です。そうなのだろうか。そうだとすれば、この場合の神はなんと都合良く理解される神だろうかと思ってしまいます。どうであれ、この世界の誰も引き受け難いはずの死を、否応なく引き受けているのが死刑囚です。そんな人の傍らにもいて、その人が引き受けることになった事実を、精魂傾け一緒に苦しむぐらいの神であってほしいと願います。

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