「・・・大阪府寝屋川市の卒業生少年が包丁2本を持って侵入。1階廊下で教諭を刺傷、2階職員室で栄養士と教諭に重傷を負わせた」事件の少年に“懲役12年”の判決がありました(2006年10月19日朝日新聞)。
この判決は、たとえば「・・・被告の行動統御能力はある程度損なわれていたと認められ、事件当時17才になったばかりだったことなどを考慮すると無期懲役(求刑は無期懲役)にはできない」、更に「・・・広汎性発達障害に対する専門的理解も十分に身につけた上で処遇しなければ治療の効果は現れにくい」など“躊躇”をかくさないのです。“事件”があって“犯人”がいて、“裁判”というものがあった結果の“判決”なのに、躊躇してしまうのはなぜだろうか。
たぶん、“判決”をするにしても“情状酌量”をするにしても、その相手が捉えにくいらしいのです。この事件の犯人は、“広汎性発達障害”と鑑定されています。判決文(要旨)を読む限り、たぶんそうなのだと思います。「・・・同障害の一般的特徴として対人的相互性の質的障害と脅迫的な固執性、限局的反復傾向が指摘されている。被告は両親に対しても、広汎性発達障害に関連した対人交互的感情の希薄さが観察されている」。で、“対人相互的感情の希薄さが観察される”とは何なのだろうか。たとえば、誰かとのやりとりで言い過ぎてしまった時、そうなった自分を悔いると同時に、傷つけた相手への悔いで、眠られない夜をすごしてしまうということはあり得ます。というようなことを、それなりに引き受け生きるということは誰にとってもたやすいことではありません。その時の気分や“対人相互的感情の希薄”などの結果、生きにくくなってしまう人は、広汎性発達障害の人に限らず、そこそこ、ごろごろいなくはありません。“広汎性発達障害”の人は、“対人相互的感情”ということでは、上手く振る舞えない自分に傷ついたりします。そうして傷つくということでは、他のどんな人たちと違いはないはずです。判決文は、そのあたりのことを「・・・被告は幼少の時から被害念慮を募らせていた」と言っています。で、「・・・これらの事情に広汎性発達障害の特徴である脅迫的な固執性もあって、被告は犯行に及んだものとみられる」として、懲役12年の判決になりました。
卒業生が卒業した小学校の教諭を刺殺したり、重傷を負わせたりすることは痛ましいことです。しかし、どうして、“母校”でそんなことが起こってしまうのだろうか。判決文は「・・・教職員に対する不満や憤りを現す言動はとっておらず、事故の職員一般に対する強い怨恨(えんこん)があったとも考えられない」としています。にもかかわらず“本校”で事件が起こってしまいました。痛ましいのは、その“広汎性発達障害”のその人の“感情”は“母校”で暴発してしまったことです。それらのことで想像できるのは、“本校”での生活はその少年にとっては、そんなに豊かなものではなかったかも知れないことです。もし、言うところの“広汎性発達障害”の少年にとって“本校”がさり気なく居られる場所であったとするなら、包丁を持ってそこに向かって行くということにはなりにくいのです。“本校”が懐の深い場所であったとすれば、全く違う意味で、そこは帰って行く場所であり得たように思われます。特別の怨恨がなかったにせよ、犯行に及ぶはずのない人を、犯行に追い込んで事件は起こってしまいました。判決のそのものが認める、判決にはなじまない少年を懲役12年と断罪することになりました。
そうして断罪しながら、判決文は「・・・被告には一つ一つの小さな課題を与えて段階的に処遇し、その場その場で対応する方法が適切だ」としています。もし、“服役前”の社会が、その人の“一つ一つの小さな課題を与えて段階的に処遇する”ことをしていたなら、こんな悲しい事件は起こらなかったことには何一つ言及しないでおいて。懐の深さを失った社会が、その結果追いつめてしまった少年の“反撃”で事件になって、しかし“断罪”することに少なからず躊躇するよりないのに判決文が書かれてしまうのがこの場合の事件なのです。
「律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、『先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』」
「彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』」
(ヨハネ福音書8章3、4、7節)。
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