ギリシア神話の英雄ヘラクレスの物語を読みました。「ギリシア・ローマ神話」(グスターフ・シュヴァープ、角信雄訳、白水社)。弓術、相撲、挙闘などにすぐれ、更に学問にもすぐれ、“怜悧さを示したが、冷酷には我慢がならない”“ギリシアでもっとも美貌で、もっとも強い男”ヘラクレスの最後は無残なものでした。“妻”から贈られた衣服に塗られた毒は、ヘラクレスの体をぶくぶく蜂の巣のようなあわをたてて苦しめます。ヘラクレスは息子のヒュロンに“さあ、剣を抜いて、わたしの首を打ち落としてくれ。そして、人でなしのお前の母親があたえたこの苦しみから救うのだ”と迫ります。結局、苦痛に責めさいなまれる絶望の中ヘラクレスは、生きたまま薪の火の山で焼かれることになります。という、いわば“自殺”のようにしてヘラクレスは壮絶な最後を遂げるのです。
2006年10月31日の新聞(朝日新聞)の同じ紙面に“必修漏れ校長が自殺”“岐阜・中2自殺/別部員もいじめ/1年生・事件2日前退部”“パワハラ訴える文書残して自殺/鹿児島の中学教諭”のことが報道されていました。“学校”で起こっているこれらの事件は、いっぱい起こっていることの氷山の一角なのか、めったにないことがたまたま重なったのかは不明です。“自殺”が簡単に選ばれるはずはないと思っています。と思うのは、自分が死なないできたのは、簡単には死ねなかったからです。簡単ではないはずの“自殺”をどうしてこの場合の3人は選んでしまったのだろうか。いずれの場合も、避けることができない場所の避けることができない人間関係の中でそれは起こってしまっているように見えます。いいえ、避けられないと考えられてしまった場所の避けられないと考えられてしまった人間関係の中でそれは起こってしまいました。
なぜ避けられなかったのか・・・避けられないと思ってしまったのか。たぶん、この国の教育の現場が“避けられる”と考えることを許さないほど煮詰まってしまっているからです。たとえば、“必修漏れ”が起こってしまったのは偶然ではありません。必修“漏れ”にしてはその数が多すぎること、高校生くらいの生徒にそのことが解らないはずがないなどから、いわば“公然”と行われていたにちがい有りません。その程度におそまつなところで、この国の教育が成り立っているということでもあるのですが。本気ではないところで、“必修漏れ”が仕組まれて、それが“発覚”すると自殺する人が出てしまうほど、脆弱なのがこの国の教育です。だからといって、そのことに本気になったりはしません。国をあげて仕組まれていく処理の仕方を見ていると、本気ではないことがよくわかります。他方、崩れているのが解っていて、なおそれを守ろうとすることに、誰も本気で怒ったりもしません。
“岐阜・中2自殺”の場合の“いじめ”は「・・・同校のスポーツ活動には、学校教育の一環である『部活動』」で起こりました。事件2日前退部した1年生の女子部員の場合「・・・練習で周りの部員がかける『ナイス』『ファイト』というかけ声が、『自分の時だけは誰もかけてくれなくなる』という“いじめ”で悩んでいたのだそうです。その“部活動”を自分で選んだ生徒たちが、本気で汗を流し、本気で声を出し合っていて、たとえばいいかげんに練習している仲間を叱責することがあっても、“声ひとつかけない”などということにはなりにくいのです。なのに、声ひとつかけない、などのことが起こってしまったとすれば、部活動が本気ではない何かによって支配されていたとしか考えられません。人が人に対して鈍感になってしまえるのは、そんなに簡単なことではありません。傷つきたくないという思いがあれば、簡単に人を傷つけたりもしないものです。しかし、鈍感であることがあたりまえになってしまうところ、たとえば自ら選んだのではなく部活動をさせられてしまうところでは、逆に簡単に人は人を傷つけてしまいます。中学生ぐらいの子どもたちは、たとえばそこを避けるのが難しくて、悲しい事件になっているように見えます。
“32才”の教師は、上記のような中学校、高校を生きてきて、結果教師になっているとしたら、もう一度自分がそこに戻った時、生き延びるだけの力を蓄えていなかったとしてもあり得ることです。
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