福永年久さんは、1952年の生まれです。17才になるまで、福永さんの生活は家庭が中心でそこから出ることはありませんでした。小学校は就学免除になり、中学校も同様就学免除になりました。就学免除という制度は義務教育を受けることが難しいと判断される子どもたちの為のものでした。適用されるのは重い障害で就学が難しいと判断される場合で、受け入れる体制が整えられなかったというのが本音の、実質的には就学拒否の制度でした。福永さんの場合は、生後7ヶ月の時の発熱で「・・・此の時、脳の神経がこわれてしまい、体が思うように動かなくなってしまう」、いわゆる脳性麻痺の為“からだが思うように動かない”ことが理由で、就学免除、就学拒否になってしまいました。(上記のことは「わが人生 自立の道-福永年久自立生活30周年記念文集」同編集委員会、2006年10月29日より)。
自立という場合、一般的には「自分以外のものの助けなしで、または支配を受けずに、自分の力で物事をやってゆくこと」などのことです。それは“独立”であったり“ひとりだち”であったりもします。しますが、福永さんは自分以外の人の全面的な“助け”がなければ生活は成り立たない障害者です。言ってみれば自立とは程遠いはずなのに、“自立”生活30年をみんなで集まって祝いました。家を出、親の助けは振り払う、しかし人の“助け”はいっぱい借りるで始まったのが障害者である福永さんの自立です。24才の時、1976年に自立生活は始まりました。「わが人生 自立の道」によれば、その時の“青い芝の会”との出会いがきっかけになりました。そうして“自立”し、30年目を迎えた記念の集まりに参加しました。福永さんの“自立”や“介護”のことで言えば、何一つしてきませんでしたが、記念文集に一文を書かせてもらい、記念集会では挨拶をさせてもらいました(記念文集に書いたのは菅澤順子さんです)。
何一つしてきませんでしたが、卒園した子どものことで西宮市教育委員会と交渉することになり、福永さんたちには最期まで応援してもらうことになりました。少しだけお手伝いすることになったのは、1995年1月17日の兵庫県南部大地震の時のことです。「わが人生 自立の道」で、「・・・1977年、青い芝で知り合った三矢英子と同棲が始まった」「1978年、冬には三矢英子との間に子供が生まれた」、と書かれている三矢英子さんは、地震で亡くなってしまいました。亡くなった三矢さんは1995年1月19日になって仲間たちの手で西宮市内の壊れた“文化住宅”自宅から掘り出されました。その日(1月19日)たまたま訪ねた西宮市中央体育館で、仲間の人たちに呼び止められ三矢英子さんが亡くなったことを知りました。その当時、亡くなった人が多すぎる為に棺が間に合いませんでした。遺体安置所になった体育館の武道場で、数個のドライアイスだけでむき出しの三矢さんの遺体と対面することになりました。棺のことで西宮市の担当者とやりあったり、市の火葬場が地震で使えなくなった為、高槻市まで運び火葬の手配をしてもらうなどの手伝いをさせてもらったりしました。
福永さんや仲間の障害を持った人たちとは、同じ街、西宮に住んでいるということもあり出会えば言葉を交わす関係は続いています。いますが、自立生活30周年記念の、“自立”ということでは、ほとんど役に立たないままできました。福永さんはと言えば、自分の自立だけではなく、障害を持った仲間たちの自立に大きな影響を与えてきました。30周年記念集会に集まった自立ないしは自立を目指す障害者たちは、福永さんと出会って今生きている自分のあることを力いっぱい報告していました。そこに集まった“介護者”“元介護者”たちも、“苦情”もありましたがそれぞれに一緒に生きてきた自分たちのことを力いっぱい報告していました。
「わが人生 自立の道ム福永年久自立生活30周年記念文集」を読んで欲しいと思っています。たとえば、この国の過去30年間の障害者の歴史が、“分析”ではなく一人の人の生きてきた事実を通して理解することができます。
そんなこともあって、11月19日の教会学校の子どもたちの活動は、福永さんを招き“福永年久さんを囲んで、福永年久さんに聞く”ということになっています。
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