街が飾られていたり、クリスマスが真最中です。教会のクリスマスは12月24日(日)です。12月24日の礼拝では“クリスマスおめでとう”“メリークリスマス”が、“おはよう”のあいさつの代わりになります。礼拝堂のアドベント・クランツの4本目のローソクに火が灯ります。今は、どんな場合でも明かりに事欠くということはありません。他方、アドベント・クランツのささやかなロウソクの明かりは、イエスの誕生の喜びが一人一人の心に届き、そしてふくらんで行くことを願うしるしとして灯されます。明日への希望や願いがロウソクを灯すくらいで、簡単に見える訳ではありません。かといって、全く難しい訳ではありません。ロウソクの明かりはいつまでも灯ってはいません。せいぜい、1時間とか2時間で燃え尽きます。で、燃え尽きないし調節もできてしまう電気の光を人は創り出しました。そうなった時に人は大切な何かを失ったのかも知れません。
海や山が耐えるというなら
私もまた耐えるのだ
瞬間を見たと思うときでも
物象となるためにはみな耐えているはずだ
(「物象」犬塚堯)
アドベントになって、一週毎に灯されるロウソクが一本ずつ増え、クリスマスのその日を待って過ごすのはとても大切なのです。
西宮公同教会のクリスマスの礼拝では“聖餐式”が行われます。イエスが生まれて亡くなったとされるのは、2000年も前のことです。「・・・自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい」というわかりやすい言葉と大胆な歩みをして亡くなった、というより殺されてしまったこの人のことの記憶が、絶えることなく語り継がれてきました。“そんな人がいた”ことが語り継がれてきて2000年、今、なに一つ古びることなく語るに足るし、伝えるに足る物語として、この心でこの体で確かめ合うのが聖餐であり聖餐の意味です。
クリスマスはそのようにしてイエスの誕生を祝うのですから、礼拝の後にはパーティをします。“愛餐会”と言ったりしますが、要するにパーティです。西宮公同教会のクリスマスのパーティ・愛餐会には主人公のイエスの他にお客さまはいません。ですから、持てなしをするのはパーティの参加者全員です。ということで、クリスマスのパーティはめいめいが得意で自慢の料理を持ち寄り自分以外の人たちを持てなします。イエスの誕生を祝うクリスマスの日に集まった人を持てなすことでその喜びを形にあらわすという具合なのです。そんなパーティ・愛餐会の持てなしですから、持ち寄った料理の詮索をしたりしないのはもちろんのことです。
そんなに大切なクリスマスであっても、もし、家族の一人が行方不明にでもなったりするならそれどころではなくなります。「とびきりすてきなクリスマス」(リー・キングマン作、バーバラ・クーニー絵、岩波書店)の、エルッキ・セパラの家でもそんなことが起こってしまいました。一番上の兄のマッティが乗っている船が“とびきりすてきなクリスマス”を心待ちにしているクリスマスを前にして、行方不明になってしまいます。で、“・・・クリスマスもなにもない”ことになりそうだったのですが、エルッキそしてマッティのお母さんは、「クリスマスがどういう日だか、忘れていたようね」「クリスマスをお祝いしないなんて、おかしいわね」ということに気が付きます。船が行方不明になったマッティは、弟や妹たちに“服や食べ物や家”のことで精一杯の両親に代わり、“いちばんほしがっているわくわくするプレゼント”を買ってくれるお兄さんでした。そんなお兄さんの“大事件”だとしたら、クリスマスは止めにするのではなく、“クリスマスまでには必ずお兄さんが帰ってくる”ことを願い、家族で精一杯の準備をすることにします。そんなふうにして願って、せいいっぱいの準備をして迎えるクリスマスの日に、家族の願いが実現しないはずはありませんでした。
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