少なからず話題にもなっている「死顔」(吉村昭、新潮社)を、新年になって2度目に父を訪ねることになった、サンダーバードの中で読みました。吉村昭の小説は、20年以上前に「破獄」(岩波書店)を読んだ以来のことです。“脱獄”というのは、結局は逃げおおせなくて捕まってしまいますから、割りにあわないもののはずです。なのに、その“脱獄”の名人のことを周辺の資料を徹底して調べあげて書かれたのが「破獄」という小説でした。
「死顔」は昨年の「新潮」の10月号に掲載されることになった、吉村昭の遺作です。死んだのは昨年の7月31日だったそうですが、自分の死のことをそれとして見つめながら「死顔」は書かれています。「幕末の蘭方医佐藤泰然は、自ら死期が近いことを知って高額な医薬品の服用を拒み、食物をも絶って死を迎えた。いたずらに命ながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬようにと配慮したのだ。その死を理想と思いはするが、医学の門外漠である私は、死が近づいているか否か判断のしようがなく、それは不可能である」と書いてはいますが、家族には“遺言”を書いて自分の死に備えていました。「・・・延命治療は望まない。自分の死は3日間伏せ、遺体はすぐ骨にするように。葬式は私(津村節子)と長男長女一家のみの家族葬で、親戚にも見せぬよう・・・」などのことを「死顔」の“遺作について・・・/後書きに代えて”で、妻・津村節子が書いています。見守って、遺される家族というものはなかなか“遺言”どおりに事を運べないものなのですが、ほぼ遺言どおりに吉村昭は死を迎えました。自分らしい死というものを迎えることが難しいのは、どんな場合の死も死んでしまった当の本人が、自分の意志を意志として貫きにくいからです。“人は必ず死ぬ”としても、そのことを“自分の死として備える”ことにはなりにくいのは、それが“いつ”なのか解らなかったりもするからです。それが思いがけない事故だったりすると、とても間に合いませんし、徐々にであれ死が近づいている場合でも、それに合わせて自己決定して行けるとは限りません。たとえば高齢者の場合がそうで、気が付いた時にはすべての判断が寄り添った家族にゆだねられることになります。誰のどんな場合であっても、自分の体や気力がおとろえて行く時に、そんな自分と向かい合って、どこかで見切りをつけるようにして、自分及び自分についての判断を誰かにゆだねる、ということにはなりにくいのです。結果、判断をゆだねられた家族などによって、延命治療が続けられることになります。良いか悪いかではなく、死をめぐる判断はそもそも難しいのです。
吉村昭の場合、遺作となった「死顔」で、主人公でもある自分がそれまで立ち合ってきた家族と死と別れのことで取ってきた態度のことが書かれています。“九男一女”の八男に生まれ、一人一人を見送って残っているのは、“横浜の兄”と“次兄”そして“私”の3人です。「死顔」は、その次兄の死をめぐって書かれた短編です。次兄はとりあえず家族にも恵まれていてそんな場合必要以上に兄弟の関係に深入りしないのが“弟”で(主人公でもある吉村昭)「・・・次兄は、父の遺した家業の一つである寝具会社を経営し、二男二女に恵まれ、長男と次男はそれぞれ事業を引き継いでいる。それらの子が病臥する兄のかたわらにいて、そうしたことから見舞うことはしないできたが・・・」などと。
身近に死に出会った時に、それなりに自分の態度というものが貫かれていて始めて、自分の死に備えるということも、少しは可能になります。そうだとしても、そんなに自分の態度をはっきりさせる人であったとしても、それを見守りそれを迎える家族にとって判断することはたやすくはありません。「死顔」の“・・・後書きに代えて”で津村節子は、そのあたりのことを少し書いています。「・・・夜になって、かれはいきなり点滴の管のつなぎ目をはずした。私は仰天して近くに住む娘と・・・介護士が来た時、このままにして下さい、と私は言い、娘は泣きながら、お母さんもういいよね、と言った」と。
父の場合は、多くの人たちがそうであったように、自己決定の時を持てないまま、いわばそれを逸して生き続けています。
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