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2007年01月04週
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“教育再生会議第一次報告”(2007年1月24日付)をざっと一読した上でこの国の教育の一端を担うものの一人として、とりあえず以下のことを要望とさせていただきます。

1, 今、この国で教育“再生”が主要な政治課題だとされる時、これまでの教育のありようを主導してきたのはいったい誰で、その結果の教育の“再生”となっていることの責任の所在が何一つ問われていないように思えます。たとえば、提言「7、教育委員会の在り方そのものを根本的に問い直す」としています。中でも、「教育委員会の問題解決力が問われる」と厳しく問いただしている“教育委員会”を県・市町村に至るまで指導してきたのはこの国の文部科学省ではなかったのでしょうか。たとえばその教育委員会の働きを、公に選ばれた教育委員によって問うはずであったものを、“任命制”にすることによって、問われない体制にしてきたのも、文部科学省ではなかったのでしょうか。そのようにして、いわば外部からの検証の道を閉ざし、文部科学省から一方的な指導のもとになされてきた教育が、結果として今日の教育現場の荒廃になってしまっていること、要するに自らを問うことが何一つなされないまま提出されているのが今回の第一次報告です。


2, 提言「2、学校を再生し、安心して学べる規律ある教室にする」では、「(1)、いじめと校内暴力を絶対に許さない学校をめざし、いじめられている子どもを全力で守る」「(2)、いじめている子供や暴力を振るう子供には厳しく対処し、その行為の愚かさを認識させる」などのこと及びいくつかの“是正”点も示されています。しかし、そうして示されることの多くは、“対症療法”であって、“いじめ”の行為の分析は何一つなされません。たとえば「学校は、いじめが起こった原因、背景を調査し、検証し、是正を行う」としていますが、そもそも、文部科学省が指導してきた、今日の学校そのものがいじめの“原因、背景”であるかもしれない、などというもっともありそうな事実がなぜ言及されないのだろうか。提言「1、『ゆとり教育』を見直し、学力を向上する」と言及されていますが、かつて、その「ゆとり教育」がなぜ提言されたのか、結果としてそれを“是正”せざるを得なくなったのか、責任の所在を国民に明らかにする必要があります。だぶん、「ゆとり教育」は、そんなに間違っていなかったはずです。間違っていたのは、それを文部科学省が教育現場を指導することで実現できると思い込んでしまったことです。“ゆとり”というものが、人が生きて生活していく上でいつのどんな時だって必要なのは文部科学省に示されなくてももちろんのことであるのをこの国の国民は知っています。そもそも、“ゆとり”というのは、誰かに指示されたり特別の“定義”があってする人の営みではありません。人が生きて行く上でどうしても必要なのがゆとりです。学校でだったら、たとえば“給食”のようなものが、週に一回は子どもたちの出し合った献立で、出来不出来は別に自分たちが作ってみるというようなことが“ゆとり”です。その時のゆとりが、少しばかり厳しくなったりもする時の子ども達の関係をしのがせる力になります。いわゆる“学習”の場合も、幼児期から始まって、喜びの中で知識を習得し喜びの中で学ぶことがあり得るはずなのに、それが摘み取られた結果の子どもたちに、知識を強制させてしまうとすれば学力強化は結果的にそれを強制する懲罰になりかねず、結果学校はますます荒廃することになります。


3, 教育再生会議第一次報告は、その表題が「社会総がかりで教育再生を」となっています。これも又、今まで総がかりでなかったとすれば、その程度のことで、この国の未来を担う子どもたちの教育が果たそうとしてきた、国や文部科学省が問われなくてはなりません。今までが“総がかり”でなかったのではなく、総がかりの方針や体制がそもそも誤っていたのです。今回の“総がかり”もあぶなっかしいのは、そもそも“社会”や“家庭”の現状を掘り下げて見つめることが全くなされないで提言になってしまっているあたりです。たとえば学校の子どもたちの“いじめ”なるものは、学校の子どもだけの問題ではあり得ないはずです。子どもたちの示す行動の多くは、当然その国のその社会を反映しています。その国のその社会が病んでいる時、その国の子どもたちもその影響を受けざるを得なくなります。そうして起こってしまっているのが、学校の子どもたちの“いじめ”であることは大いにあり得ることです。言いかえれば言葉が生きた働きを失った国の社会では、人という生きものの英知である言葉を使った解決が選ばれず、いじめという“解決”が選ばれてしまっているかもしれないのです。“社会総がかり”は間違っているのではなく、何よりも問われなくてはならないのは、学校や子どもたちだけではなく、この国の社会そのものなのです。

2007年1月25日
兵庫県西宮市南昭和町10-22
西宮公同幼稚園
園長 菅澤邦明
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