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2007年02月01週
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 高齢者の施設で生活することになった宝塚の父を、なんとか週に一回訪ねることにしています。食事を作ったりの生活の自立は不得手だった父ですが、身の回りのことでは、誰かの世話になる必要はありません。食事の世話などが必要な父は、同じく高齢の母の手には余るところから、施設の世話になることになりました。父を訪ねた時には、2~3局碁をうって過ごします。昨日の訪問者のことも思い出せない父ですが、碁の打ち方は記憶に残っています。父が白で4~6目おかせてもらって互角です。そして“勝負”ということになる、汚いことはしませんがそこそこきびしい碁をうちます。しかし一週間前に一緒に碁をしたことを覚えていません。ですが、一週間前に、碁をしたじゃないですか?と問いただしたりしません。勝負には真剣で、そこそこ厳しく碁を打つのですが、一週間前に打ったことは覚えていないのです。一週間前の確かな体験を覚えていなくて、覚えていないそのことを追求することが、少なからずその人の人格の否定になってしまうことはあり得るのです。宝塚の父の場合がそうです。“覚えていない”ということが、不可避的に起こってしまう時、そのことを追求されるとしたら、ただ戸惑うよりありません。あるいは、覚えていない自分を強く否認するという、不自然なことも起こってしまいます。高齢者の施設で生活するようになって、ほんのしばらく前のことや、一週間前のことを覚えていなくても、その生活に差し障りがある訳ではありません。そんなことはどうでもよいことではなく、大切なのは、とりとめもない言葉を交わし合いながら、“家族”と過ごす今の時間がそこにあることが大切なように思えます。


 富山県氷見市の父は、4~5日すると現在のケアハウスから老人保健施設に移ることになるようです。身辺の自立が難しくても、ケアハウスでの生活が続けられたのは、家族に代わって世話をしてくれる人がいたからです。“世話になる”ということは、とかく負のこととして考えがちです。そうではなくて、そこに世話をしてくれる人がいるということは、その人が生きてきた結果得られた、その人の財産であると考えれば、負のことであるとは言えなくなります。父は、そんな意味では幸福な人なのです。老人保健施設、いわゆる老健に移ることになると、ほぼすべてのことにおいて施設がしてくれることなります。そのことで、あれこれ考え込んだりしています。身辺の自立が難しくなっている父ですが、92歳まで生きてきたのは、人として生きる強い意志があったからです。そうして人として生きる意志は、他でもない誰か他の人と生きる生活の中でしか生まれようがないものです。そこそこガンコで、そこそこケチであったとしても、それも個性としていっぱいの人のつながりがあって父は生きてきました。そんな人のつながりは、その人の記憶の保存にも大きな力になります。人が、生きる意味は、その人の中に蓄えられてきたたくさんの記憶、人のつながりそのものだったりします。聞こえにくくなって、身辺の自立も難しくなって、更にその人と外をつなぐ手だてまで失われてしまう時に、記憶という財産があやうくなります。人の記憶は、繰り返し呼びさます何か、それは人であっったりモノであったりするのですが、そのつながりによって更新されることになります。それが高齢者であればあるほど、聞こえにくく身辺の自立が難しくなればなるほど、それをつなぐ人やモノの存在が重要で、その最も適切な担い手である家族の存在は欠かせないことになります。ですから、家族から離れてケアハウスで生活したり、あるいは老健で生活するようになったり、更に特別養護老人施設で生活するようになった高齢者にとって、人として生きる意味をつなぐということでは、それまで一緒に生活してきた家族、あるいはそれに代わる人の存在はどうしても必要なはずです。


 父たちの場合に、今の状況で家族から離れての生活がやむを得ないとしても、人として生きる意味をつなぎ続けることの為に、あれこれ考え込んでいます。

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