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2007年02月02週
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 “マンガ版”「神聖喜劇」(大西巨人、のぞゑのぶひさ、岩田和博、幻冬社、全6巻)を読みました。原作の「神聖喜劇」は、読む機会がありませんでしたが“マンガ版”でやっと読み通すことができました。「神聖喜劇」は、“対米英開戦から間もない1942年(昭和17年)1月からの3ヶ月、主人公の東堂太郎や教育召集によって対島の要塞重砲兵聯隊に配置された新兵の軍隊教育”を描いた物語です。


 日本軍の軍隊内の生活や教育訓練、実際の戦闘場面などのすべては“操典”や“令”など“文語カタカナ書き”の事細かな条文によって決められ行使されることになっていました。「神聖喜劇」は“操典”や“令”などの事細かな条文によって生活や教育訓練が遂行される時に、人が生きる現実からかけ離れてしまうこっけいさを描いた“神聖”“喜劇”なのです。“神聖”“喜劇”を教育訓練だけではなく、ホンモノノ戦争において実践してしまう悲惨をこの国とこの国の人は体験することになるのですが。


 主人公の東堂太郎は暴力的で絶対的服従を要求する“操典”や“令”がそれ故に持ってしまう綻びをそれの抜群の記憶力を武器に立ち向かって行きます。“操典”や“令”に服従するとしても、完璧な記憶と実行は不可能なものとして書かれていることを暴くという具合に。たとえば、“操典”や“令”で決められていることを守らなかった(守れなかった)として、“知りませんでした”とは絶対に口にしてはならなくて“忘れました”が日本軍隊内での約束でした。というのは、“知りませんでした”は、それを教育するはずの上官の怠惰、責任が問われることになりますから、責任のすべてを本人が負う“忘れました”でなくてはならなかったのです。もちろん“忘れました”と口にした時の兵士を待っていたのは、その不始末の故になぐられるということだったのですが。東堂は、このことがどこで決められているのかを、徹底的に追及するのですが、“操典”にも“令”にもどこにも見つからない“不文律”でした。そうした不条理な不文律がまかり通ってしまう日本軍隊は兵士の生命をとことん粗末にする戦争を“神聖”“喜劇”として実践してしまいます。


 手元に、父のものであった表紙がぼろぼろの「歩兵八書」(大正3年7月印刷・発行、同8年40版)があります。“歩兵八書”とは、“陣中要務令”“歩兵操典”“歩兵射撃規範”“野戦築城教範改正草案”“軍隊内務書”“陸軍礼式”“斉戍修例及衛戍勤務令”“陸軍服装規則”が“八書”で一冊になっています。92歳になる父は教師をしていた為、アジア太平洋戦争の戦場には直接行っていませんが、兵役には服した経験があって、こんな本を残していました。そんなものを、めくっていると、「神聖喜劇」の描く日本軍隊が“文語カタカナ書き”でいろいろ目にとまります。たとえば“歩兵操典”第2章第163“突撃、追撃及退却”には以下のように書かれたりしています。「一回ノ突撃ニシテ若成功セサルトモ従ヒ他隊ノ援助ヲ欠クモ志気旺盛ニシテ精練ナル中隊ハ再三再四突撃ヲ反復シ得ルモノナリ苟モ死力ヲ尽シテ奮進セハ如何ニ頑強ナル敵トイエドモ終ニ之ヲ敗滅ニ陥ラシムルコトヲ得ヘシ」。で“追撃”に移るにあたって「・・・敵陣ヲ奪取シ得タル成功ニ満足シ攻撃ノ劇働ニ疲レ部下ノ体力ヲ愛惜シテ躊躇スルカ如キコトアルヘカラス」。要するに、1回や2回の突撃に失敗しても(たとえそこでいっぱいの兵士が死んでしまっても)、そしてどんな強い敵であっても死力を尽くせと言っています。そして、もしおびただしい犠牲を払った末突撃に成功したら、激しい戦闘で部下が疲れ切っていたとしても、そんな事に心を動かさずにとことん追撃することを止めてはならないのです。という“歩兵操典”に反してはならない為、疲れ切った兵士を“猪突して潰滅させる”ことが往々にしてあったのです。そうまでして“突撃”“追撃”が絶対服従で要求された兵士の“給食”の手配はおよそ粗末なものでした。“出征”する兵士の「携帯口糧ハ各人精米一日分(六合)、乾麺一日分(180匁)、及副食物(缶詰肉40匁、食塩6匁)」だけです。給食の補給は「広ク地方糧末ヲ利用スルハ給養ヲ円滑ナラシムルニ大ナル効果アリ・・・地方糧末ヲ募集スルニ方リテハ勉メテ購買ノ方法ニ依リ徹発ハ成ルヘク之ヲ避クルヲ可トス・・・」。“出征”した兵士たちの食糧は、“現地調達”で、できるだけ買い取った方がよいが、略奪してしまう補給も想定の範囲内だったのです。
 このたてまえの軍隊は“猪突”することにおいては強い時もありましたが、おびただしい犠牲を払った末に完敗することになりました。今たとえば、教育再生をたてまえにいじめを洗いざらい摘発するなどになってしまえば、子どもという営み、即ち多くは境界線で営まれる子どもたちの生活の監視が教育になってしまい、教育の現場がますます荒廃することになります。そうして、今新たに“神聖”“喜劇”をこの国とこの国の人は歩もうとしているように見えます。

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