シェークスピアの戯曲を少しだけ読んでいます。シェークスピアの戯曲や芝居は全く知らない訳ではありませんが、「リア王」はうろ覚えで、「ジュリアス・シーザー」はアントニーによる“追悼演説”がおもしろくて、何度か目を通したことがあります。復讐の復讐の復讐劇である「タイタス・アンドロニカス」、「ハムレット」は、小田島雄志訳(白水社)、福田恒存訳(新潮社)を読んでみました。
「ジュリアス・シーザー」のシーザーが「・・・お前もか、ブルータス?それなら死ね、シーザー!(死ぬ)」のブルータスらに裏切られて死に、そのブルータスたちを言葉の力で追いつめて行くアントニーの追悼演説は説得力があります。シーザーの殺害現場に現れたアントニーは、決してブルータスたちを非難したりしません。「・・・ほかでもない、おれの血が所望だと言うのなら・・・今すぐ、その朱に染まった手から 臭いにおいの消えぬうちに、どうにでも好きなように・・・シーザーの傍に、しかも君らの手にかかって殺されるのだからな、この世の華、時代の鑑ともいうべき君らにだ」(「ジュリアス・シーザー」福田恒存訳、新潮社)と、一旦はシーザー殺害を肯定するような言い方をします。そうしておいて、「・・・この亡骸を広場に運び、演壇において、いわば友だちとして礼を尽くす意味で、シーザー追悼の言葉を述べさせてもらいたい」(同前)と、ブルータスらの許可を得、そしてローマ市民の集まる広場で追悼演説を始めます。アントニーは“シーザーの野心”を、集まった市民の前で認めながら、そしてブルータスたちの行動を一旦は肯定しながら、市民たちに“葬ること”“悼むこと”の正当さを訴えていきます。そのようにして、市民たちの心情にうったえ、シーザーが全く殺害されるにはあたらないこと、言われるところの野心はなかったことを、シーザーの“遺言?”を示すことで、逆にブルータスたちに止めをさして行きます。非難・攻撃してではなく、肯定するところから始めて、すべて言葉の力だけでやり込めて行くところが絶妙なのです。ですが、「ジュリアス・シーザー」は、そのシーザーでもなく、アントニーでもなく、ブルータスのことが中心で描かれる戯曲です。
シェークスピアは言葉を巧みにあやつることだけで、彼の戯曲の一つ一つを書いている訳ではありません。たとえば、「ハムレット」も「タイタス・アンドロニカス」も「ジュリアス・シーザー」も“復讐”劇なのですが、そして“復讐”というくらいですから、暗く残虐ではあるのですが、愛であれ憎しみであれ、人という生きものに肉迫して、“真実”を描き出していて、それが物語としておもしろいからに他なりません。
「ハムレット」の中で、母や義父が“亡霊”の言うとおり、父親殺しの犯人であるかどうか確かめる為の“劇中劇”が演じられます。その場面でのハムレットの“独白”は、人を理解しようとする時のシェークスピアの底の深さが、“演ずる”ということを手掛かりに示されているように読めます。「・・・ああ、このおれは、なんとやくざな根性か。度し難い臆病ものめ!あの役者を見ろ。ただの絵そらごとではないか。それを、いつわりの感動にわれとわが心を欺き、目に涙をため、顔面蒼然としてとりみだし、声も苦しげに、一挙手一投足、その人物になりきっている。・・・もしあいつがおれの役を演じ、同じ悩み、同じせりふをあてがわれでもしたら、どんなことでもやってのけよう」(「ハムレット」)。こうして芝居の中での芝居(劇中劇)のことを論じているのですが、問われているのは芝居の中のやりとりであるのですが、人として生きる真理こそが問われます。現実を生きる人を、芝居の中で演じられる人におとりはしないかと。そうして演技者が演ずる芝居は、人が生きる現実をえぐらずにはおかないという意味で。ハムレットが、ハムレットの演技者が芝居の中で「・・・生か、死か、それが疑問だ、とちらが男らしい生き方か、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押し寄せる苦難に立ち向かい、止めを刺すまであとに引かぬのと、一体どちらが。いっそ死んでしまったほうが」と、自らに迫る“憂い”や“苦しみ”を、演技ではなく生きている人が、芝居の演技によって他のどんな場合よりも問われる、そうことでもあるのです。そんな意味で、「ハムレット」は、シェークスピアの芝居は、人に“いかに生きるか”を問う実学であったりします。
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