「神聖喜劇」(大西巨人、光文社文庫、全五巻)を"マンガ版"(大西巨人、のそゑのぶひさ、岩田和博、幻冬社)で読みました。原作は一字一句を読まないと先に進めない―そうでないとこの小説の本当のおもしろさと付き合うことにならないのでしょうが、マンガ版のいいところは時にはながめるだけでも、そこそこおもしろく付き合えるところです。
で、神聖喜劇の日本軍の描写の真髄はそこで繰り広げられている言葉の格闘です。徹底して形式主義的な軍隊の言葉の世界に、主人公の東堂太郎陸軍二等兵はその軍隊の言葉に精通し尽しそれを武器として立ち向かっていきます。日本軍は、そしてそもそも軍隊というものは"暴力"で成り立っています。暴力を駆使する為に、その暴力を徹底して鍛えるのが軍隊です。ですから、一兵卒の東堂太郎がどんな言葉で立ち向かったとしても、圧倒的な暴力の前では所詮力尽きるよりありません。しかし、形式主義的な軍隊の言葉は徹底すればするほどその空疎な実態をさらけ出すことになります。軍隊というものの、人の生きる生活実態からの乖離を自ずから露わにするという具合に。
日本軍で"銃"は「・・・消耗品である兵隊は、はがき一枚で代わりが来るが、小銃は、兵器は、二銭では作られない。銃の取り扱い方、手入れ法を、よく勉強しておけ・・・」(神聖喜劇、第一巻、"夜"、光文社文庫)と言われるように、兵士の命よりも重んじられていました。例えば、銃の各部の名称を残らず記憶することが求められたりしますが、各部の名称をすべて記憶していないと銃が使えないということではありません。なのに、日本軍では銃の各部の名称の記憶が絶対的なこととして要求されました。
「おれが指す部分の名称を言え、ええか。」
「はい。」
私は、大前田の右人差し指の動きを追って、「照星、?杖、上帯、下帯、木被、照尺、照尺鈑、遊標、遊底覆、槓桿、用心鉄、引鉄、弾倉底鈑、上支鉄、下支鉄、銃把、床尾、床尾鈑、床嘴。」と正確に、澱みなく唱えた。当てはずれと苛立ちとの表情をあらわに示して、彼は、銃を卓上に載せると、右手に槓桿を荒々しく握り起こし、遊底をいっぱいに開いた。
「これ。」
「撃茎、駐胛、弾倉、薬室、遊底駐子。」
軍隊はどっぷりそこに浸かって、その作法を無条件に受け入れて生きることを強いる組織であり制度です。上官大前田が銃のことで東堂に要求したのもそのひとつでした。東堂は軍隊の言葉で澱みなく答えます。暴力的な要求にぐうの音も言わせない程に、完璧に答えてしまう、それが神聖喜劇の東堂太郎の魅力です。軍隊というものに精通し尽すことで軍隊の空洞を暴露してしまうのです。("名称を言え"と命令した上官が銃のことのすべてを記憶していなかったし、それで困りもしなかった。)神聖喜劇は、部落出身の兵士に対する差別を描くことで、軍隊が持っている別の暴力性を明らかにします。隊内で起こった事件で、出身が被差別部落であるというだけで一人の兵士が犯人にされます。しかも、そのことが軍体という組織の暗黙の了解のもとでなされます。閉鎖された組織の暴力は、出身地などで特定された部落出身の兵士に差別となって襲い掛かります。たとえ濡れ衣でも、部落出身の兵士がそのことから逃れるのは容易ではありません。仲間であるはずの兵士が暴力的な差別の担い手になり、更にその暴力に鈍感であること暴力で鍛えられた兵士が犯人を作り出しまいます。そんな中で、東堂が部落出身の兵士たちに寄り添う位置に立ち続けるのは、彼が暴力に屈しなかったからではなく、組織や制度の中で自分を"風化"させてはいなかったからです。組織や制度にどっぷり浸かりながら、進んでその組織や制度の担い手にならないのは、東堂の人が"風化"していなかったからです。神聖喜劇は、東堂によって、たとえどんな組織や制度であっても、まったく自分をその中で"風化"させてしまわない生き方のあり得ることを示しました。容易くはないけれども全く不可能ではないこととして。
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