「聖書の解釈と正典/開かれた『読み』を目指して」(関西学院大学キリスト教文化研究センター編、辻学、水野隆一、嶺重淑、樋口進)を読みました。で、「感想文」を書いてみることにしました。
毎朝幼稚園の先生たちの集まる"朝礼"で少しずつ聖書を読んでいます。2007年4月13日は、旧約聖書エレミヤ書11章14~23節を読みました。「・・・それゆえ、この民のために祈ってはならない。また彼らのために泣き、あるいは祈ってはならない。彼らがその災いの時に、わたしに呼ばわっても、わたしは彼らに聞くことはしない・・・」。古代の人が書き残し、更に日本語に翻訳されたもの、"物語"を読むからといってすべてが全くちんぷんかんぷんということではありません。どうであれ、人が書き残したもの、"物語"には、人が人として生きた事実の"痕跡"を読み取ることが不可能という訳ではありません。それが、上記のエレミヤ書のように誰かを断罪することである(?)と読んで、何ごとかを感じたりしても全く間違いではありません。いずれにせよ、そこに支配的な空気があって、それに論争を挑み、自ら波浪を起こすことも辞さないという意味での気迫がエレミヤ書にはみなぎっています。と思って読んでいます。古代人の、しかし時代に同調などしない生き方が込められた言葉としても。こんな言葉を書き残したのは、その言葉を残す人として壊れてはいなかったからです。
「聖書の解釈と正典」は、そうであるかも知れない聖書と向かい合って、それを弄んでいるように読めました。聖書はそれが「・・・全き知識を我らに与える神の子にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」(日本基督教団信仰告白)と言って譲らないことで弄ぶ人もいたりする、いろいろやっかいな書物です。しかし、時代には同調しないで生きること、人には譲るということもあり得るなどのことが、読み取れる契機ということでは豊かな内容を持ってはいるのです。それが誰かを断罪し、何ごとかを弁護する目的で書かれたとしても。
そんな読まれ方をする聖書を、過去の書物の位置に戻し、正典となった由来なども探りながら、「・・・開かれた『読み』を目指す」人たちの発題と討議がまとめられたのが前掲の書物です。なのに、弄んでいると読めてしまうのは、この人たちの態度のように思えます。たとえば、大学などで学問を生業とするものの役割が解っているのだろうかと。学問をするということは、自分にしかない仕方で事柄の本質に迫り、根拠を示しつつ解り易く書き記すなどのことがその仕事だったりします。そうだとすれば、事柄に対することにおいても、事柄を解き明かすことにおいても、この書物を作っている人たちは誠実であるとは思えませんし、古代の書物のことを"厳しく"問いながら、自分たちが書き残している書物及びその書物の書き手でもあることにもほとんど無防備だったりもします。要するに弄んでいるのです。
「・・・実際には現在の聖書本文は本文批評によって再構成されたもので、版によって少しずつ異なっています。ネストレ版聖書も永続的に改定されていくものです」(前掲書)は、"基本的なことがよくご存知でない"場合でも話は乱暴すぎます。たとえば、現存の"聖書本文"である"ネストレ版聖書"は写本であること、その聖書本文には場合によって本文ページの半分くらいを割いて異なる"写本の読み"が示されていて、異なった写本の読みを確認することも可能です。それが聖書の「成り立ち」であってみれば、"版によって少しずつ異なっている"と、ただのんきに言っている場合ではないはずです。「・・・福音書のイエスの言葉に関して言いますと、もともとはイエスの言葉伝承がギリシア語に翻訳されたものです」(前掲書)で"翻訳"と言ってしまうのもたぶん乱暴すぎます。新約聖書(福音書も)もともとギリシア語で書かれたという"重要なこと"をことこまかに論述しているのが「書物としての新約聖書」(田川健三、勁草書房)です。「書物としての新約聖書」は参考文献として挙げられていますから、"ギリシア語に翻訳され"などとなったりするのは、参考文献が参考になっていないことを示しています。
と「感想文」を書いている人が"写本の読み"や"ギリシア語"のことが解っている訳ではありません。ただ、感想で書いてきた意味での基本的なことが、聖書というものを読むときに避けては通れないことを、たとえば「書物としての新約聖書」などから少なからず学んできました。正典の問題で、正典主義と立ち向かって頑張らなければならないとしても、手にしている正典の基本的なことがおさえられていないとしたら、やはり弄んでいると言わざるを得ないのです。
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