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小さな手大きな手

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2007年04月05週
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 「主よ、もしわたしが彼らの幸福を祈り求めず、また敵のため、その悩みのときと、災いのときに、わたしがあなたにとりなしをしなかったのであれば、彼らののろいもやむをえないでしょう」と主(神)の前で"祈って"いるのはエレミヤです(エレミヤ書15章11,12節)。人には避けられない苦難の時がある、という主(なる神)からの使信を語った時(預言した時)、エレミヤは袋だたきにあってしまいます。そんな時のエレミヤの“ぼやき”が上記の言葉です。人が人として生きる時、引き受けるよりない苦難があること、もしそれが主(なる神)の約束であるなら、そのことを引き受ける覚悟のことを「幸福をあなた(主なる神)に祈り求める」ことだと、語っているように読めます。“祈り”は、願いを口にして、それが実現することだなどは言っていないのです。そうして“祈った”はずなのに、返ってきたのは“のろい”でした。だから、祈りたくはなかったと口にして、ぼやいているように聞こえなくはありません。しかし、“祈り”に“のろい”でこたえた人たちと向かい続けたエレミヤが、主(なる神)の前で立ち続ける様子から見えてくるのは、祈りの人であるエレミヤです。
 で、祈りということで思い出すのは「なんくるない」で、よしもとばななが書いていたことです。「この世の祈りは、みんな、ほんとうはいるのに見えなくなってしまったある概念のために・・・たとえば母にとっては父の中に見つけた理想の男性像や、父にとってはこんなに気難しく考え深くなく、ただ勝気で陽気だった母の姿や・・・そういう存在に捧げられているのだと、私はその時、言葉に出来ないながらも感じていた。そしてなんだかとても悲しくなった」「そこにいるのに会えない理想のかたちを求めて始まるのが祈りというものなら、人間はなんて傲慢なのだろう。そして感謝を捧げるのが祈りなら、人間はどうしてそんなに気楽すぎるのだろう。そういうふうに感じたのだ」(「なんくるない」よしもとばなな、新潮社)。沖縄を舞台に書いた4つの物語が「なんくるない」で、“祈り”というものが一番問われるのが沖縄であると、たぶんよしもとばななは理解しています。
 「私はあくまで観光客なので、それ以外で書くことはやめた。これは、観光客が書いた本だ。沖縄は日本人にとって、あらゆる意味で大切にしなくてはいけない場所だ。沖縄を愛する全ての人・・・深くても軽くてもなんでも、あの土地に魅せられた人全て、沖縄への感謝の気持ちを共有できて、それ以上の喜びはないと思う」(「なんくるない」あとがき)。
 たとえば、1945年3月、日本の地上戦の戦場になってしまった沖縄で、“この子たちは生きのびて欲しい”と祈った祈りは、どこにも届きませんでした。祈られた子どもたちも、祈った人たちの多くが悲惨な戦争の中で息絶えていきました。それらのことを引きずったままの沖縄に、今も出合う時に“祈り”というものが問われざるを得なかったのが、「なんくるない」(沖縄の言葉で“なんとかなる”)のよしもとばななの祈りの理解だと思っています。
 西宮公同教会の週報で(ホームページでも)「明日への祈り」が書き綴られてきました。「明日への祈り」を依頼する短い文章を用意しています。傲慢でもないし、気楽でもない、明日への祈りを依頼する短い文章の案です。

 西宮公同教会週報の為短い文章であなたの「明日への祈り」をお願いしています。祈りは何かに感謝したり、何かを願ったたりすることに止まらない営みです。感謝できそうになかったり、願ったりしたくない時に、自分を超えた力の前に立たされていることに気付いてする営み、それが言葉になるのが祈りかもしれません。
 たとえば、平和であって欲しいと祈る時、それが実現しない悲しい現実を生きる人たちに、どうしたらこの祈りは届くのかが問われます。あなたの「明日への祈り」に挑戦してください。
 あなたの祈りを書いてください。
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