前近藤崇晴仙台高裁長官が、最高裁判事の一人として就任することになりました。就任にあたっての会見で語った“抱負”が紹介されていました。「・・・最高裁が出す結論は、健全な社会常識に合致することが必要。裁判官人生の総決算として微力を尽くしたい」「・・・裁判員制度まであと2年。できるだけ国民の負担とならないように、環境整備に努めたい」(2007年5月24日、朝日新聞)。最高裁判所の判事は、この国で生きる人の振る舞い、人の生死、国が決定することの是非などに決定的な影響を持つことになります。言うところの“最高裁が出す結論”は、文字通りそこで問われたことの“結論”を下します。それが“死刑”の結論になった時、その執行を待つ以外他の道は閉ざされてしまいます。“結論”を下すことの最後の決定権をゆだねられているのが最高裁判事です。
だったら、それは何に基づいて何をしていることになるのか。“何に基づいて”の何はこの国が“法治国家”と呼ばれたりする場合の“法”です。法は、起こり続ける出来事に、そのまま対応するわけではありませんから、具体的な出来事と法との兼ね合いを判断するのが判事の役割になります。“制定された法”は国の場合だったら、それをするのは“国会”なのですが、政治家たちの力関係で決まったあやしい法もなくはありません。そして、国の法の元になる基本法が、この国の場合だったら日本国憲法です。全ての法は、日本国憲法の許容する範囲内で、法として成り立つことになります。そうだとすれば、“結果”を出すことをゆだねられた最高裁の判事が就任する時の“抱負”が“・・・健全な社会常識に合致する”であってはまずいような気がします。抱負が語られるとすれば、この国の基本を定める日本国憲法を守ること、法治国家としての信頼するに足る法の解釈や適用に尽くす、だから法にゆだねて欲しい・・・であるように思えます。それが、今回の場合のように“・・・最高裁が出す結論は、健全な社会常識に合致する”になってしまうとすれば、この国はもはや法治国家の体をなしていないということになります。
というのは、起こり続ける事件の中で、犯罪の被害者は多くの場合放置されてきました。結果、被害者(被害者の遺族)からの叫びが、少年の刑事責任を問う年齢を下げる、非公開裁判への遺族の参加、更に加害者を弁護する、弁護活動までが批判に晒されたりすることにもなります。事件、犯罪の悲しみや憎しみを被害者(被害者の遺族)が直接加害者にぶつけることがあたりまえであるような状況が生まれつつあります。被害者として味あわされている悲しみや憎しみなどから、直接加害者にぶつけることはあってもいいと理解されがちですが、そうだとすれば、人の英知が築き上げてきた法やそれに基づく裁判制度はないに等しいことになりかねません。悲しみや憎悪でしか立ち向かいようのない事件、犯罪であったとしても、それを裁くのが法であり裁判制度であるとしてきたのは、そんなにとんちんかんなことではありません。人が事件、犯罪に向い合う時、そのことと同じように自らをおとしめることがあってはならないという、人の知恵の結実がたとえば裁判制度です。事件、犯罪に対する悲しみや憎悪を直接の仕返しである“私刑”にしないというのが、法や裁判の制度です。
ですから、新しく最高裁判事に就任するにあたって、“抱負”が語られるとしたら、“法と裁判を信頼し、法と裁判にゆだねて欲しい”と、言葉を尽くして訴えることこそが、その人に問われていることです。だとすれば、“・・・最高裁が出す結論は、健全な社会常識に合致する”になってしまうとすっごくまずいのです。健全な社会常識がいけない訳ではありません。それはそれで大切ですし、健全な社会常識は最高裁判事でなくっても、了解したり守ったりは、大人から子どもたちまで、普通に人として生きる常識です。
しかし、最高裁判事が何より求められるのは、普通が守られない結果の、事件、犯罪であっても、法が裁くから私刑になってはいけないことを、説得力のある判決文で被害者(被害者の遺族など)に示すことです。健全な社会常識を示すことが最高裁判事の仕事になったりしてはいけないのです。更に、最高裁判所が示さなくてはならないのは、狭い状況や時代を越えた“人として守るべき普遍的真理・正義”です。
宗教(たとえば、牧師のような仕事)が示さなくてはならないのは、説教で終わるのではなく一緒に汗を流すこと、条件を付けずに人を受け入れる態度のように思えます。
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