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2007年06月02週
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「神さまが…」(シンシア・ライトソン、訳・絵 ささめや ゆき、偕成社)の“神さま”は、いろいろ人っぽいところがありす。キリスト教で神の形を思い浮かべさせるものとしては、例えば「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された」(創世記1章27節)と書かれたりしていますから、神さまは限りなく人っぽいのです。人っぽいのですが、創造という働きのことでは人に譲ったりしません。“一番”は神さまであって人ではないのです。「神さまが…」の“神さま”もこのことの理解では譲ったりしません。その神さまは、道端でおなかをすかせ寒さにふるえている犬を見てしまった時、「神さまの毎日は忙しい、とても犬など飼ってはいられない」「生命を吹きこんで、ひとりで生きてゆけるようにしてあるのだから」と一応は思うのですが、「・・・この犬をつくったのは、自分ではなかったか」と気が付いて、やむなく犬を飼うことにします。ここでは、造ったということと、自己決定ということと、心がゆらいでしまうということとがあって、神さまが犬を飼うということになってしまって、結果「…ひとりぼっちじゃなくなって、夜、足もとをあたためてくれるものができた」という、神さまにとってもそんなに悪くはない結果になります。
 そんな神さまにとって、人というものがその神さまの手の届かないところで、“一番”を主張し時には実行する“安楽死”のこと(又は"自殺"のこと)は、困ったことだと思っています。(だと思う?)。たとえば“安楽死”は、本人の“自己決定”を尊重した結果であってもこの国では事件になります。それがぽつりぽつりと繰り返されるうちに、社会は少しずつ安楽死を受け入れる方向に向いていきます。肯定されるのは、社会が自己決定を尊重する方向に進んでいるからだと、もっともらしく言われたりもします。しかし、安楽死が肯定されて論じられるところでは、難しいし生きにくい生命を社会として抱え込みたくないという思いが見え隠れしていなくはありません。難しさをかかえて生きる人の“生きにくさ”が、自己決定の名のもとに結果として安楽死を選ばせているのであって、難しいし生きにくいとしても、生きることが肯定されその為の手立てが講じられるのであれば、安楽死を自己決定することにはなりにくいかもしれないのです。
 2006年のこの国の“自殺者は32155人で、9年連続で30000人を超える”ことになりました。男性28813人、女性9342人、そのうち小学生14人(前年比7人増)、中学生81人(前年比18人増)、高校生220人(前年比6人増)。(2007年6月8日朝日新聞)。“自殺”というくらいですから、これらの場合の死は“自己決定”です。しかし、問題はそんなに簡単ではないのはもちろんです。小・中・高校生の“自殺”の場合、生きてきた歩みや経験の少なさ、“未知”な世界に向かってこれから生きて行くはずなのに、それらを断ち切ることが選ばれてしまったということでは、そこにあるはずの可能性を伝えなかった社会の責任は免れません。子どもたちの死は、どうであれすぐれて社会的な死であり、中でも子どもたちの自殺は、未来を示しえなかった社会の貧しさの指標でもあるのです。男性の自殺が、全体の70%を超えてしまうのは、男性というものの生きる力の“弱さ”なのでしょうが、自分が生きた社会で人として刻んできた人生の結果であるとすれば、これもまたこの社会の貧しさの結果ではあるのです。
 そうして、30000人を超える自殺、その70%を超える男性の自殺、900人を超える子どもたちの自殺は、確かに社会の貧しさの結果なのでしょうが、そのまま了解してしまうとしたら、同じ時代を生きる自らの貧しさを認めてしまうことになりかねません。もし、生きるということが、生きやすさを選ぶことで成り立つものであるなら、逆の、難しさと生きにくさの先に自殺があったとしてもあり得ることです。同様に、自己決定としての安楽死があったとしても、これもあり得ることです。しかし、難しいし生きにくいなりにそれが“分散”され“共有”されるとすれば、“安楽死”や“自殺”を“自己決定”するのは容易いことではなくなります。
 「神さまが…」の“神さま”は頑なに神であることから自由になって、“分散”し“共有”することに方針転換した時、様子は変わりました。結果、すべてがうまくいった訳ではありませんが、“夜、足もとをあたためてくれる”という、小さいけれどもいいものを“足に入れる(?)”ことになりました。
 “安楽死”“自殺”のことをああだこうだと言い得たとして、人の生命は、もしそれが失われることがあるとすれば、その瞬間まで自分の生命を生き抜いたということでは、敬意を払うことを忘れてはならないのです。
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