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2007年07月01週
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老人施設の父の部屋にあった「文芸春秋」(2007年7月号)を借りてきて、「父島人肉事件の封印を解く―硫黄島戦・栗林兵団のタブー」を読みました。翌週に父と囲碁で向かい合いながら、その記事のことが話題になりました。太平洋戦争のパプア・ニューギニア島の生き残りでもある父は「・・・そりゃ、そういうこともあるでしょう」と、碁盤に目を注いだまま呟くのでした(パプア・ニューギニアに派遣された日本軍約150,000人のうち生存者は11,197人。父から預かっている「ウエワク・補給途絶2年間、東部ニューギニア野戦貨物廠将兵・軍属かく戦えり」による)。父は、戦争のことは多く語りません。というか、多くの場合戦場で生き残った人たちは、戦争のことを語りませんでした。それが悲惨であったのはもちろんですが、語れない戦争をして、その多くは語られることはなかったのです。
 “父島人肉事件”のことは、敗戦の後“事件”として裁かれ記録も残されることになりました。そんな経緯もあって、生存している当事者が、この事件の証言をしたりしたため、上記のように雑誌の記事にまとめられることになりました。太平洋戦争の日本軍による“人肉事件”のことは、ガダルカナル島、パプア・ニューギニア島でのこととしても、“伝えられて”います。しかし、“記録”や当事者による“証言”として残されている訳ではありませんから、“あったかも知れないし”“なかったかも知れない”以上に言及されないまま今日に至っています。
 「ローマ皇帝群像」(Ⅰ~Ⅱ、Ⅲ~Ⅳ未刊 アエリウス・スパルティアヌス他、京都大学出版会)は、ハドリアヌス帝からヌメリアヌス帝までのおよそ200年28人のローマ皇帝と“王座を狙った者”のことを記述しています。トラヤヌス帝の後を継ぐにあたって、ハドリアヌスが少しずつその信任を得ていく経緯、例えば「ハドリアヌスに対するトラヤヌスの親愛の情は増したが、それは第一に、皇帝のためにハドリアヌスが書いた演説のおかげである」そして「彼はプロティナ(トラヤヌスの“妻”)の寵愛をも享受した」などのことが「ローマ皇帝群像」には書かれています。こうして“細部”のことが書かれていたりしますが、その生涯や事跡など全体の分量はわずかです。
 そんな「ローマ皇帝群像」を読んだりするきっかけになったのが、「ユルスナールの靴」(須賀敦子、筑摩書房)で、更にユルスナールの「ハドリアヌス帝の回想」(多田智満子訳、白水社)「空間の旅、時間の旅」(多田智満子他訳、白水社)で教えられるのは、“歴史”は人間省察の営みであることです。例えば一般には“通俗的・凡庸”と言われる「ローマ皇帝群像」(ユルスナールの前掲書では「皇帝列伝」)の“細部”の記述が浮かび上がらせるのは皇帝の実像です。「・・・しかしながら、このような本質的な凡庸さにも関わらず、あるいはまさにその凡庸さのゆえに『皇帝列伝』を読むのは衝撃的な体験なのだ。・・・この書物からは、恐ろしいほどの人間くささが立ち上ってくる」「移りゆく歴史に関して庶民や控え室に集う人々がどのように判断を下したか、この地味で、同時に極めて興味深い作品ほどよく伝えてくれる書物はない。ここにあるのは純粋な状態の世論、即ち不純な状態の世論なのだ」(前掲、「空間の旅、時間の旅」)。
 ガダルカナル島で、パプア・ニューギニア島で“捕虜・逃亡兵(友軍)”を対象とした、極度の飢えの結果の人肉食のことは、“巷”では語られてきました。しかし、そのことを太平洋戦争の戦場で生き残った自分の体験として“証言”する人はいませんでした。だから、人肉食がなかったのではなく、戦場から生還した人たちには、その事実を“証言”できなかったのです。しかし、このことは“巷”では語られてきました。例えば、旧約聖書列王紀には、「この女はわたしにむかって『あなたの子をください。わたしたちは、きょうそれを食べ、あすわたしたちの子を食べましょう』と言いました」などのことが書かれています。(下6章28節~)。聖書が、たとえばさり気なく戦争のことに触れる時、そこでの悲惨な人間存在のことを、こんな具合に書き残すのです。日本軍の従軍慰安婦問題で米下院外交委員会は「日本政府は、1930年代から第2次世界大戦にかけ、日本軍が若い女性に性的な奴隷状態を強制した歴史的な責任を明確な形で公式に認め、謝罪し、受け入れるべきだ・・・」などを内容とする決議をしました(2007年6月27日、朝日新聞)。このことをめぐって、谷内正太郎外務事務次官は「・・・日本の立場に関する我々の説明努力と採決が関係あるとは思えない」と、よそ事のように語ります(前掲、朝日)。
 そうだとしたら、この国の人たちに欠落してしまっていること、耳を傾けなくてはならないのは、「ローマ皇帝群像」についてユルスナールが書く以下のような記述の中にあるように思えます。「『皇帝列伝』が批判しているのは人間そのものの条件であり、政治や国家の概念それ自体にほかならない。習得されなかった教訓、失敗した実験、しばしば避けられたのに、実際にはけっして避けられたためしのない誤謬は、嘆かわしいほど多く・・・」「浪費はすでに失われた富の存在を信じさせようとするものであり、余剰はほんの些細な危険が起こっただけでまたたくまに欠乏に変わり、気晴らしは支配者が按配したもの・・・」。
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