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2007年07月05週
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 兵庫教区被災者生活支援・長田センターの「公開学習会『被災と向かい合う宗教』」で、五百井(いおい)正浩さん(真宗大谷派玉龍寺。神戸市長田区)の話を聞きました。五百井さんも玉龍寺も1995年1月17日の地震で被災しました。“被災者”として地域の人たち(檀家)の人たちのお世話をする中で、須磨区下中鳥公園に避難していた人たち、そのリーダーである田中健吾さんとの出会いが、その後の五百井さんの被災者との向かい合い方に大きな影響を与えることになります。というか、被災者として被災者と生きる田中さんの姿が、五百井さんの“宗教者”として生きる原点を掘り起こすことになりました。宗教活動をする宗教家として生きてきた五百井さんが「寺とは何なのかということを問う」ことになったのは、大きい自然災害の被災地で被災者になり、被災者と向かい更に被災者と向かい合う人たちと出会ったことからでした。もちろん、五百井さんの柔らかい生き方が、それらのことを可能にするのですが。その場合の柔らかさは、五百井さんの仏教の歴史を作ってきた人たちの中に、それとして貫かれてきたものでした。例えば、釈迦の「…形あるものは必ず壊れる」歎異抄の親鸞の「よろずのこと みなもって そらごと たわごと まことなり」などのことを、五百井さんは"災害で見えたもの"としても紹介しています。
 宗教を生きることを、聖と俗に分けるとすれば、“俗”を徹底しようとしたのが、五百井さんの仏教、真宗大谷派の“初代”親鸞でした。その親鸞を五百井さんは以下のように読み直しています。①バラバラでいっしょ―差異(ちがい)をみとめる世界の発見②親鸞教学はは仏教社会学を意味する③あらゆる人々を同胞として見出す④怒りもてまことを求める⑤亡き人は、仏となり、家族にとって、これからも、人生の導き手となる⑥災害を逃れる為の念仏ではなく、どんな事が来ても引き受ける力が念仏であるなどのことです。
 そうして“俗”であるはずなのに、そこに別の“差異”が生まれ、人を差別し排除する働きを、真宗教団が担う歴史を刻んだりもしました。俗であること、俗と共に生きることを貫いたはずの人を“親鸞・聖人”と定義してしまうということでは、五百井さんも例外ではありません。しかし、大地震の被災者との長い付き合いを生きて更にそれが長くなることを予測して2000年12月に立ち上げた“ネットワーク朋”の“朋”は、あらゆる人を同胞として生きる仏教思想であり生き方そのものです。その場合の“あらゆる人”を、五百井さんたちは、自分たちの身内の仏教者に限定しませんでした。(“朋”は“貝を綴った形”と言われます。“二つ”あって始めて成り立つし、意味を持つということ。積極的に、あらゆる人を同朋として生きるのです。)
 2007年3月25日の能登半島地震の
後、7月の常議委員会で日本基督教団は被災した教会と関係施設の修理の為に1億5千万円の募金を決めました。地震の直後、特に支援・救援などのことの必要はないと言っていた教団は、およそ3ヶ月経って復興ということの視野においているのは“身内”の教会と関係施設のことだけです。宗教の働きや意味を“身内”のこととしてしか捉えられない“狭量”さは、この場合のキリスト教が持っている“スタンダード・ノーマル”にあることを、五百井さんは指摘していました。「キリスト教―スタンダード・ノーマル(神に最も近い完全な人間の状態)な人は、ハンディキャップ(すこしでもそうじゃない状態の人)を助けてあげなければいけない(という考え方に陥ってしまう)。仏教―天釣の思想(障害があっても、五体満足でもどちらもスタンダードではない)。スタンダードを作るから被差別者ができる」。
 確かに、信仰告白を“基準として”と言い切って止まない人たちが主導権を握っている日本基督教団ですが、キリスト教という宗教の始まりや歴史すべてが“スタンダード・ノーマル”であるという訳ではありません。確かに、イエスを“目の敵”にして止まなかった、ユダヤ教の律法学者にとってあれやこれやの律法を守ることが“スタンダード・ノーマル”でした。その律法学者の“目の敵”であったイエスにとって、守るべきことはそんなにありませんでした。「第一のいましめはこれである『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、だたひとりの主である、心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』第二はこれである。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。(マルコによる福音書12章29節~31節)。
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