「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一、講談社現代新書)で、生物の一つの定義として「…正常さは、欠落に対するさまざまな応答と適応の連鎖、つまりアクションの帰趨によって作り出された別の平衡としてここにあるのだ」と言われていることが、他のことにもそのままあてはまるように思えて納得しています。
8月20~21日に行なわれた関西神学塾・教会と聖書の合同合宿に参加しました。発表者の一人、勝村弘也先生の「『聖書』の翻訳―旧約と死海文書の場合―」の、中でも直接“死海文書”を示してそれを解読する発表は、そこそこ難解な内容でした。1947年にパレスチナの死海を見下すクムランの洞穴などから発見された巻物(後に“死海文書”と総称)の多くは“断片”でした。それが少しずつ解読されて行くことになって、旧約聖書に関係するらしいなどのことも分かってきましたが、その作業は現在も続けられています。その日本語版が岩波書店から発行されることになって、いくつかの断片の解読をしている経緯が、勝村弘也先生によって紹介されました。発見された巻物の断片の解読ですから、とても専門的な仕事になります。専門的で“解らない人には解らない”内容の発表でしたが、少しばかり“解った”のは、“断片”とは言いながら、専門家による専門的な働きによるとは言えそこそこ読めてしまえることです。例えば、2000年前のパレスチナという時間的にも物理的にも遠く隔てたところで書き残されたものであったりしても、それが少なからず解読されてしまうのは、人が書き残したものだからです。“断片”だけが残って、かなりの部分は“欠落”しているのですが、要するに全く不完全なのですが、それでも読めてしまえるのは、“欠落に対するさまざまな適応の連鎖”が働いているからです。このことは、断片の欠落が埋められたということに止まらない何かを意味します。
合宿のもう一つの発表は桑原重夫先生の「私はこのように聖書を読んできた―田川建三訳著『新約聖書・訳と註』発行に接して」でした。キリスト教という宗教がやたら完全で絶対であるという主張が、身近なところからも聞こえてきます。キリスト教及びキリスト教信仰を端的に言ってしまえばこうなる、ということを表現したのが “信仰告白”です。そのもともとの成り立ちは、古代社会で、キリスト教及びキリスト教信仰について、あれこれ言われてしまうことを押さえ込んで、これが絶対間違いのない“正解”としてまとめられたのが信仰告白でした。この信仰告白の伝統は現代の教会の中でも生きていて、そのことが強く主張される場合もあります。
そんな具合に、キリスト教やキリスト教信仰のことが決まった枠の中で捉えられてきましたが、全体としての聖書は、きまった枠というものを持っていません。聖書は、新約聖書にも旧約聖書にも“原本”というものが存在しません。断片まで含めるとおびただしい数の“写本”があって、その“異同”を示した“聖書本文”が作られていて、手にすることができます。新約聖書の場合はそれがギリシア語で書かれていて、ページの下段部分に写本の“異同”が記号で示されています。ですから、なんとか聖書本文を読むためには、ギリシア語を読む力と、ページ下段の“異同”などを解読する力がないと、本来の意味で聖書本文を読んだことになりません。という、謙虚さが聖書というものと向い合う時に求められるのです。しかも、たどたどしくではなく、“読みこなす”ぐらいの力が求められるのは、それにふさわしい内容のことが聖書には書かれているからです。桑原重夫先生は、いわゆる研究者ではなく、教会の現場を生きる牧師という仕事をしてきて、そして上記の意味で聖書を読める数少ない人の一人です。そんな桑原先生から、ずいぶんたくさんのことを学んだり、教えられたりしてきました。発表のもう一つの課題「田川建三訳著『新約聖書・訳と註』発行に接して」では、聖書本文を日本語で読むということで、上記の条件を満たして翻訳された、始めての日本語の聖書として、田川建三先生の翻訳の仕事のことが言及されました。完全ではないし、自らそれを認め明示している聖書と向かい合うということは、桑原重夫先生のしてきたことであり、「田川建三訳著『新約聖書・訳と註』」によって、具体的に一冊の書物になりました。何よりも“正常さは、欠落に対するさまざまな応答の連鎖”という、事柄への(この場合は聖書を読むことへの)謙虚さがあって始めて、これらの働きが実を結ぶことになりました。
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