子どもたちの能勢のキャンプで登った剣尾山(けんびさん)山頂近くの山道に沿って、5、6体の地蔵が並んでいました。見つけた子どもたちに“これ、なに?”と聞かれました。“昔ここに捨てられたおじいちゃんやおばあちゃんがいて、このお地蔵さんは、そんな哀しいことをしてしまった人たちが建てたんだと思う”と“姥捨”のこととして説明してしまいました。いわゆる“姥捨”のそれと剣尾山の地蔵が関係があるかどうかは調べていません。
篠山の白髪岳(しらがたけ)の名前の由来は、登ってみて分かったような気がしています。頂上付近はともかく、南面の樹木は、ほとんどが白い木肌のやぶつばきでした。やぶつばきの“白い”木肌で、その山を土地の人たちは、白い髪の山“白髪岳”と名付けたに違いないと思っています。白髪岳を越え、稜線をぐるっと回ってもう一度上ると松尾山頂です。松尾山の急な斜面を杉などの人工林に代わるあたりまで下りてくると30~40基の全く無記銘の“墓・仏石(?)”が並んでいるのにでくわしてびっくりします。“卵塔群”と呼ばれているその“墓・仏石(?)”の由来のことも調べていませんから解りません。ただ、ふっと思い出したのが剣尾山の地蔵のことと“姥捨”のことです。そのいずれの場所も、そんなに里から離れていないとは言え、足腰の不自由な高齢者にとって、そこから里に下りていきにくい距離とそれなりに険しい山道です。剣尾山と地蔵のこと、白髪岳のこの、卵塔群のことから、それで“姥捨”を想像したとしても、全くありそうもないことのようには思えません。
“姥捨”は、そのようなことがあってという文献が残っていて、歴史的事実として確定できることではない出来事です。しかし、貧しい山里で口減らしの為、養うべき人数を減らすための“姥捨”は事実として行なわれていたとしてもあり得ることです。年をとってあまり役に立たなくなる、あるいは生きていても足手まといになる高齢者が、その時が来た時家族の了解のもと山のその場所に連れて行かれました。誰も自慢のできない死が選ばれたその人たちの為に建てられたのが、無記銘の地蔵だったり卵塔だったのかも知れません。だからと言って、それらのことがすんなり了解された訳ではありません。一緒に生きてきて、一緒に生き続けられなかった哀しさ無念さを、無記銘の地蔵や卵塔が語り伝えることになりました(・・・と調べもしないで思っています)。
石牟礼道子が多田富雄との往復書簡で、能の“姨捨”の「わが心 慰めかねつ 更科や 姨捨山に 照る月を見て」に触れながら、そのことの哀しさや無念について言及しています。「記憶するということを突き詰めて考えてみると、私達はそれぞれ自分のこもる繭を一個ずつ持っていて、無限領域としての闇の中から、光をたぐるように生命の糸をたぐりながら生きてきたと思います。」(往復書簡/石牟礼道子・多田富雄、季刊・環(かん)、30号、藤原書店)。“哀しさ”や“無念さ”が否定されることとしてではなく、生きる営みのつながりの中で見つめられているのです。
3ヶ月ぶりに、老健施設夕涼会の父を訪ねました。近くに住んでいる兄に任せる代わりに近くにいるもう一人の父をなんとか毎週訪ねることで自分なりの了解にしてきました。しかし、3ヶ月ぶりの父は、ずいぶん衰えて見えました。昼食の後、繭のよう固まってベッドに横になっていた父は、息子が呼びかけても孫がゆすってもなかなか目を開けようとしませんでした。一年前のケアハウス夕涼会の時の父は夕涼会が盛り上がって自分もにこやかにしていました。今年の正月にケアハウスで過ごす父を訪ねた時、父が自分で手配したにぎり寿司を一緒に食べました。老健施設の夕涼会の前に、すべてが流動食になった父はそれを機械的に口に運び続けても、表情を変えたりはしませんでした。
たぶん誰も、それとして認めないのでしょうが、父の世話になっている老健施設や、もう一人の父が世話になっている特養施設は、立派に現代の“姥捨”を実行しているように思えなくはありません。それがかつて山里であったらしい“姥捨”と違っているのは、貧しさの故の口減らしではないことです。国の財政を理由に、2006年4月老人保健法などが改正され、老人のリハビリテーションが難しくなりました。“老いも若きも”の“老い”の理解や定義がゆらいでしまって、有効性や力あるものの論理がまかり通ってしまった結果、老健施設や特養施設が事業として成り立ってしまうという結果になってしまっています。それらのことを、深く思考することなしに了解してしまっているとすれば、能の“姨捨”から学ぶことはいっぱいあるように思えます。
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