人の体はおよそ60兆個の細胞によってできていること、更にその細胞は短い周期で入れ換わっている(更新されている)などのことが解っています。そんな途方もない数の細胞が“整然”と本来の働きをし、働きを終えて入れ換わって行くことが“超システム”と定義されたりします(「免疫の意味論」多田富雄、青土社)。細胞、中でも「人間の免疫系を構成しているリンパ球系細胞の総数は2兆個、その約70%がT細胞・・・」なのだそうです(前掲書)。「動物の心臓の前面を覆っている」「軟らかい白っぽい臓器」が「胸腺」で、「この『胸腺』からサプライされる細胞がThymus(胸腺)のTをとってT細胞と呼ばれるリンパ球である。T細胞は、いろいろな免疫反応に参加し、ことに『自己』と『非自己』を強力に排除するための免疫反応の主役となる」(前掲書)。ここで言われている「自己」と「非自己」は、例えばその人の体の中にもともとある細胞が「自己」、その人に由来しない細胞が「非自己」ぐらいの意味です。自己と非自己を識別しているのがT細胞です。その場合に、T細胞は直接非自己を識別、排除するのではなく、一旦その中に取り込まれた非自己を識別し、排除するという面倒なことをしていますが、「T細胞の『非自己』の認識は、もともとは『自己』の認識の副産物」であるからです。それは「自己」の働きをより学習するためであったり、「自己」の「非自己化」を監視するためであったり、何よりも「自己」を尊重する働きを担っているのがT細胞だからであると言われています(前掲書)。と、人の体はなかなか良くできている“超システム”なのです。
「終末期医療に関するガイドライン(たたき台)」(2006年12月12日)及び「終末期医療の決定プログラムのあり方に関する検訂会議事録」(第1回議事録、2007年1月11日)を読みました。“終末期医療に関するガイドライン(たたき台)”が急がれているのは、特に医療の現場では切迫した問題だからです。“終末期”の患者と日々向かい合う医療の現場では「積極的安楽死」「間接的安楽死」「治療行為の中止(による安楽死)」などのことが、日常的な営みとして問われ、そのことでの“事件”が司法処分の対象になったりしています。公開されている検討会議事録を読んでみると、医療の現場で日々繰り広げられている終末期医療の実態や困難のことが、当事者の声として挙げられています。そうしたことの結果“ガイドライン”を示そうとするのですが、検討会の討議において基本的な合意はもちろん、おおよその合意も、得られにくいことが浮き彫りになっています。
今日、多くの人は病院で死を迎えます。病院というものは、治療を施すことを目標に可能な限りの力を尽くす施設です。そんな病院にどうであれ人を死なせる役割(尊厳死としての積極的安楽死、間接的安楽死、治療行為の中止)を担わせることは、そもそも矛盾しています。多分、荷が重すぎるのです。
どんなに孤立していると見えても、人は本来社会的な存在です。その人が誕生した時、その人は既に社会の中で社会を背負う存在として生きています。社会的存在として生きたその人は、いつか社会的存在としての死を迎えます。その場合の生や死は、誰のどんな場合も、完全に了解されるということはあり得ません。その、完全には了解されない生と死を、当事者はもちろん社会全体が持っている知恵を出し合って了解しようとしてきました。そこでは、ガイドラインはありませんでしたし、期待もされませんでした。
ところが、人の生が全体としての社会から抽出され、中でもその死を病院で迎えることになってしまった時、ガイドラインにあたるものが必要になってしまいました。しかし、どんなガイドラインも、本来社会的な存在である人の死を了解し得るものとして書くことは難しいはずです。
たとえば、老年期を迎えた人は、「不規則性、不連絡性、重層生、非整合性などが老化を特徴付けるキーワード」で「『悪性度』が極めて高いと考えられます。しかし、そのことは同時に『老化の完成』『必然的な世代の交代を余儀なくさせる、アクティブな生命現象かもしれない』」のです(前掲「免疫の意味論」)。もしそうだとすれば、生命現象と向かい合うのは、ガイドラインによってではなく、一人一人の生と死の現場での、一回一回の判断によるよりありません。なぜなら、人はずっとそのようにして、いわば正解というもののない
人の生と死に向かい合ってきたのですから。
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