「絞首刑」(ジョージ・オーウェル、「動物農場」所収、角川文庫)は、“絞首・死刑”を執行する側から描いた短編です。もちろんそのことの肯定ではなく、絞首刑が処刑する側にとって少しでも心地良いものではないことを、それが執行されていく“事実”の日常を描くことによって明らかにしました。死刑囚が処刑台に向かっている時、何かの間違いで一匹の犬が紛れ込んで、張りつめた空気を破ってしまいます。「・・・10ヤードほど進んだとき、(死刑囚の行進が)なんの命令も予告もなしに、突然、行列がぴたりと止まった。恐ろしい事が起こったのだ――降ってわいたように、犬が一匹、中庭に現れたのだった。そして、ひっきりなしに激しく吠えたてながら、われわれの間に踊り込み・・・」(オーウェル、前掲書)。一匹の犬が現れて吠えたてることが、そんなに“恐ろしい事”であるはずはないのですが、殺すことが目的の行進に、犬が現れて吠えたてることで、張りつめた空気が破られます。絞首刑になるその人ではなく、執行する人たちが破られるのです。
死刑囚が絞首・死刑によって救われるということはありません。同じように、執行する側もそれによって救われるということのなりにくいのが死刑です。刑の執行のその瞬間まで、「健康でちゃんと意識を持ったひとりの人間を殺す」のが死刑であってみれば、そのことに直接立ち会うことになることに心穏やかでいられるはずないのです。「まさに絶頂の生命を、突然、断ち切ってしまわなければならない不可解さと、そのいうにいわれぬ邪悪さとに、はっと気が付いたのだ」(ジョージ・オーウェル、前掲書)。
法務大臣をしていて更に継続することになった人が、この国の死刑の執行に関することで発言したことが、少なからず話題になっています。「大臣が判子を押すか押さないかが議論になるのが良いこととは思えない。大臣に責任をおっかぶせるような形ではなく執行の規定が自動的に進むような方法がないかと思う」「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが、乱数表かわからないが、客観性のある何かで事柄が進んでいけば、次は誰かという議論にはならない」「誰だって判子ついて死刑執行したいと思わない」(法務大臣、2007年9月25日、朝日新聞)。これは、多分本音です。しかし、この本音が無責任なのは、死刑を制度として持っている国の、その執行の最終決定をする人として、死刑というものの理解が全くできていないことです。死刑を制度として持っているこの国の死刑の執行は、事前に公表されることはなく、結果だけが小さく報道されます。法務大臣の発言の主旨は、そういうことでもあるから、単純な“事務処理”として執行の“判子”を押したいということなのです。しかし、事はそんなに単純ではあり得ません。例えば、最高責任者が事後処理で判子を押したとしても、それから先の手続きの具体的な進行には、その都度誰かの“決定”が求められます。“決定・処理”することでは終われないのは、その時相対している死刑囚は、どうであれ健康でちゃんと意識を持ったひとりの人間で、その人間の息の根をとめることが死刑だからです。死刑執行のその日、監房から連行する時、当人は執行のその日であることを瞬間まで知らなかったとしても、執行するその人はすべてを知っています。そして、絞首台上で首に縄をかけるのも、最後の踏み板を落とすのも誰かの合図が必要です。その一つ一つの過程で、その執行に携わる人たちが、全く何も考えないということはあり得ないのです。もちろん、その時に当の死刑囚の示す反応によって、執行に携わる人達の心が揺さぶられるということも大いにあり得ることです。「絞首刑」が描いたのは、死刑がその当事者はもちろん、執行に携わる人にとっても救いにならないことです。
死刑を制度として持っている国の、その制度・執行の頂点に立つ人に求められるのは、救いにならないことの頂点でそのことに携わっていることの自己理解です。それを“ベルトコンベアー”でやってしまいたいのだとすれば、その制度を冒涜することであり、その人が処刑されることになった、例えばその事件の関係者を冒涜することになります。
絞首、死刑の執行の最終決定するということは、そしてそれが執行されるということは、その瞬間において生きた一人の人間が息の根を止めることであってみれば、どうであれ、悩みぬくことや後ろめたさなしにはあり得ないのです。
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