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小さな手大きな手

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2007年10月01週
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地域の学校で実施されることになった音楽の集りに、短い時間ですが同席することになりました。不思議に思ったのは、外部から音楽家を招いた集りに、学校の責任者が終了の時間まで同席しなかったことです。音楽の集りには、何かの都合で途中から5~6人の低学年の子どもたちが加わることになりました。低学年の子どもたちには、最初参加して聞く様子は見られませんでした。教師はもちろん同席していた保護者の誰一人、その子どもたちに参加すること、聞くことを促すということもしませんでした。音楽家を紹介しその集まりに同席することになって、部外者であることを承知で、そんな子どもたちの近くに座り込み、参加や聞くことを促すことになってしまいました。参加している意識も、耳を傾ける様子もなかった子どもたちが、不思議というか当然というか、促された結果、本音はわかりませんが他の参加者が拍手を送るところでは、一緒に拍手をしていました。数日前、幼稚園の子どもたちと出掛けた電車で、4~5年生くらいの子どもと同乗することになりました。ばらばらっと乗り込んできて、空いた席を争うように座り込もうとした子どもたちに、引率者が“短い間だから、座らないで立っているように”という内容の指示をしていましたが、子どもたちは“どうしてすわったらいけないのか”と反論していました。引率者からは、それ以上の説得力のある指示はなくて、席を立つ子どももいれば、座り続ける子どももいるという具合でした。引率する大人が、自分の言葉に責任を持ち、指示、説得するという様子には見えませんでした。
新しく首相になった人の“所信表明演説”には、所信の一つとして“子育てを支える社会の実現”のことが述べられています。「…体験活動や徳育にも力を入れ、自立と思いやりの精神を養います。先生が子どもたちと十分に向かい合える時間を増やす…」(2007年10月1日、朝日新聞)。ここで、“自立と思いやりの精神を養います”など言われている教育の現場は、たまたま外部から眺めただけとはいえ、前述のような実態だったりします。同乗することになった電車の場合も、少し混み合ってきて高齢の人が乗ってきても、子どもたちは席を譲りませんし、引率者からそのことでの指示もありませんでした。どうして、そんなことになってしまうのだろうか。おそらく、教育の現場の日常で、時にはゆずれないこととして、言葉で格闘することの意味が失われてしまっているのかもしれません。所信の“子育てを支える社会の実現”の、“自立と思いやりの精神を養う”からも、指導者としてゆずれないことを言葉を尽くし所信しているように聞こえてはきません。
ギリシア神話のオデュッセウスのことを「オデュセウス」(「ギリシア・ローマ神話」白水社)、「オデュッセイアの冒険」(ローズマリー・サトクリフ、原書房)、そして「オデュッセイア」(ホメロス、岩波文庫)などで読んでいます。もとはと言えば、ギリシア神話の「オデュッセイア」のオデュッセウスは、小さいとは言え一つの国の指導者であり、弓の名手であり、トロイア戦争の名高い英雄です。そのオデュッセウスが、凡庸な指導者で終わらなかったのには、いくつかの理由があります。ギリシアとトロイアの戦争の原因はヘレネでした。トロイアの滅亡の時、オデュッセウスは自分の“命”を代償に、ヘレネの約束を守ります。指導者というものは、時にはそれがささやかな約束であっても命を代償にする覚悟のある人なのです。トロイア戦争に勝利したギリシア軍の中で、オデュッセウスのギリシアへの帰還は困難を極め、次々と仲間を失ってしまいます。全く自分の責任ではないにしても、その責任の一切を身に負う覚悟も指導者なのです。海と島をさまよい、やっとのことで故郷に帰りつく直前に、仲間の軽率な行動の結果オデュッセウスたちの帰還の旅は振り出しに戻るということもありました。そしてオデュッセウスと仲間たちは意気消沈しますが、そのことの責任を問うことはしないで起こった事態を引き受けます。それもまた、責任者というものの覚悟であり態度なのです。故郷のイタケに戻ったオデュッセウスの帰還を疑っていた人たちを試みる意味で最後まで自分の身を明かしませんでした。それは相手を試すのだけではなく、自分もまた試されていることの自覚のもとでなされます。あるいは、誰よりも自分が傷つく覚悟の上で試すのです。指導者であること、英雄であるということは、たとえささやかなことであっても、そのことで生命の輝きが問われるのであれば、臆することも軽視もしない態度で生きることなのです。
というようなことは、神話の英雄や指導者だけのことだけではなく、今たとえば子どもたちと生きる大人にも同じように問われていることのように思えます。
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