10月14日の西宮公同教会の週報の“小さな手・大きな手”で、言及したカルヴァンの「新約聖書註解」(コリント前書)の“読み誤り”について、いくつかの点で訂正します。
聖晩餐についてカルヴァンは、“未受洗者への配餐については全くあり得ない”こととして“否定”します。「生きた信仰もなければ、悔い改めもしない人は、当然キリストの御霊にも全然さずかっていない訳であるから、いったい、どうしてキリスト御自身にあずかることができよう。さらに、そのような人は、すっかり悪魔と罪にとりつかれているのであるから、どうして受け入れることができようか。しかし、キリストを受けるのにふさわしくないままでいながら、聖晩餐において、やはり真実にキリストにあずかっている人たちがあることは、わたしも認める。たとえば、多くの弱い人たちはそうである。けれども悔い改めと信仰のいきいきした感情もなく、ただ、いわゆる『福音だけの信仰』(つまり、福音書の物語をうのみにしているだけの信仰)しかもたない人々が、しるし以外のものにあずかっているとは、認めることはできない」(カルヴァン、コリント前書)。
そのカルヴァンのキリスト教思想を中核に、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(大塚久雄訳・岩波文庫)を著したのがマックス・ウェーバーです。「カルヴァンにおいては、人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在するのであって、あらゆる出来事は―したがって人間のうちの―小部分のみが救いに召されるというカルヴァンにとって疑問の余地のない事実もまた―ひたすら神の威厳の自己栄化の手段として意味をもつにすぎない」。「神の決断は絶対不変であるがゆえに、その恩恵はこれを神からうけた者にはは喪失不可能であるとともに、これを拒絶された者にもまた獲得不可能なのである」(ウェーバー、前掲書)。という、カルヴァンの“預定の教説”について、ウェーバー自身は「この荘重な非人間性をもつ教説が、その雄渾にして徹底的な思索に身をゆだねた当時の人々の心にあたえずにはおかなかった結果は、何よりもまず、個々人のかつてみない内面的孤独化の感情であった。宗教改革時代の人々にとって、人生の決定的な事柄なる永遠の救いという問題については、人間は永遠の昔以来定められている運命に向かって孤独の道を辿らねばならないのであった」と述べ、「カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを―正確には救いの確信を、といわねばなるまい―『造り出す』のであり、しかも、それはカトリックのように個々の功績を徐々に積み上げることによってではありえず、どんな瞬間にも選ばれているか、捨てられているか、という二者択一のまえにたつ組織的な自己審査によって造り出すのである」(ウェーバー、前掲書)。そして、「神がその信徒から要求したものは、個々の『善き行為』ではなく、組織にまで高められた聖潔な生活、そうした形でのいわば行為による救いであった」というカルヴィニズムは、ウェーバーがこの書物で“近代ヨーロッパの資本主義の精神、職業倫理の根源として見つめたのがカルヴィニズム”です。ただし、その“カルヴィニズム”は同時に、その範囲から外れる人たちのことを「すっかり悪魔と罪にとりつかれている」と言ってはばかりませんでした。
カルヴァン自身は「自分が神の『武器』であると感じ、自分が救われていることに確信をもった」として、カルヴァンの「信徒一人一人の胸には、私はいったい選ばれているのか、私はどうしたらこの選びに確信がえられるのだろうか、という疑問がただちに生じてきて、他の一切の利害を忘れさせてしまったにちがいない」ということになりました(ウェーバー、前掲書)。
コリント人への第1の手紙11章27節の「だから、ふさわしくないままでパンを食し、主の杯を飲む者は」の、“ふさわしくない”を、カルヴァンのように読むことが全く不可能ではないとしても、“すっかり悪魔と罪にとりつかれている”“悪用によって、その、真の、正しい用いかたを堕落させる”と断定したりすることの根拠を示せる訳ではありません。
いわゆる聖餐については、マルコによる福音書には、イエスによってなされたその事実(これがそうだとして)が記述されるだけであり、コリント人への第1の手紙は、その記述されている通りに読めば、聖餐にふさわしいか否かを峻別する為のものではなく、“一緒に集る時”の“兄弟たち”の立つ位置への関心が強く示されているように思えます。ただし、コリント人への第1の手紙の記述が良きにつけ悪しきにつけこの書物の著者が生きた時代とその制約のもとで書かれたことを、考慮しつつ読まなくてはならない事実が多々あります。「あなたがた自身で判断してみるがよい。女がおおいをかけずに神に祈るのは、ふさわしいことだろうか。自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり、女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女にあたえられているものだからである。しかし、だれかがそれに反対の意見を持っていても、そんな風習はわたしたちにはなく、神の諸教会にもない。」(11章13~16節)などです。
これらのことをもとにして定められた、日本基督教団の聖餐に関する規定は“成立する枠”として絶対であり“逸脱する自由は・・・認められない”などとなったりはしにくいのです。ですから、もともとが借りものである日本基督教団の聖餐に関する規定は、そのことの聖書における考察、更に歴史的経緯についての考察を抜きにして、いきなり「北村慈郎教師に対して教師退任勧告を行なう」になればいずれにしても乱暴すぎます。
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