日本基督教団総会議長
山北宣久様常議員の皆様
2007年10月21~22日の、日本基督教団常議員会における「北村慈郎教師に対し教師退任勧告を行う件」の議決について、28日礼拝の後の集りで話し合われたことを、このことについての西宮公同教会の見解として述べさせていただきます。
私ども、西宮公同教会の理解によれば、教会というものは「・・・信仰共同体としての教会は教憲教規によってその具体的な姿を現している」ということにはなりにくいと考えております。およそ70年前、西宮公同教会の小さな種がまかれた時の何よりの願いは「イエス・キリストにならい、小さいもの、幼いもの、力の弱いものに寄り添って生きる」ということでした。その願いが引き継がれて、この地域で教会の歴史を刻んできて今日に至っています。教憲教規は西宮公同教会の歩みの中で、目に見えないところで、しかし確実に教会の歩みを支えてきました。
いずれにしても、一度たりともそれを振り回すことで教会であろうとしたことはありません。この度の「北村慈郎教師に対し日本基督教団の教師退任を勧告する」は、もしささやかに歩んできた教会の歩みというものを考慮するなら、口に出しにくいことが平気で言われる、お粗末というよりない議案です。
例えば“未受洗者”という、教会が出会っている人の定義のことです。もし、受洗ということが、いくばくかの人の決断があるとしても、招かれてのみ可能なものであったとすれば、誰かに“未”受洗者と言ってしまうのは、あまりに傲慢というよりありません。
例えば“未受洗者への配餐”について、教会総会や、役員会の決定であっても“無効”だと主張されています。教会総会や役員会が絶対ではないにしても、導かれた場所で恵みを信じてその歩みを刻んできた教会の決定であったとすれば、“無効”と断定する前に、見つめるべきこと、聞くべきことはあったはずで、それをいきなり“無効”と断定するのは乱暴すぎます。
西宮公同教会では、およそ30年前から主任担任教師が“補教師”で、その補教師による聖礼典(洗礼・聖餐)が執行されることを了承し今日に至っています。今回「北村慈郎教師に対し教師退任勧告を行う件」議案及びその承認などの経緯からすれば、西宮公同教会の場合も“退任勧告”ということになります。その場合、そのことのすべてを受けとめ西宮公同教会としての理解や見解を述べさせていただく用意のあることを申し述べさせていただきます。
2007年10月28日
日本基督教団 西宮公同教会
「北村慈郎教師に対し教師退職勧告を行う件」についての兵庫教区教育部委員会としての見解」
2007年10月25日(木)に開催された兵庫教区教育部委員会で、教団常議員会が「北村慈郎教師の退職勧告に関する件」を可決したことの報告がありました。教会の聖餐式で、そこにいた人たちすべてを招いたことが、教師の退職に値するとしたこの残念な議案・決議に兵庫教区教育部委員会としての見解をまとめ、教団常議員会及び諸教会に示すことが確認されました。
兵庫教区教育部委員会では、3年ほど前から、教会教育研究会を呼びかけ、「希望への教育」(レギ-ネ・シントラー)、「生きる力の火種のとうとさ」(服部祥子)などの学習を通して、教会教育(教会学校、付属施設などの働き)における子ども理解を深めてきました。
10月25日の教育部委員会に引き続いて行われた「第8回教会教育研究会」ではテキストである「幼児期」(岡本夏木)の最終章を学ぶことになりました。「幼児期」に書かれているのは、ささやかな理解によればその根底に置かれているのは「対抗文化」としての“幼児期”です。そのことは著者の言葉で「『真の幼児期』は社会を常に人間的に批判し、自己を人間存在たらしめてゆく視座として、私たちの中に働き続けてくれる」と要約されています。“未完・未熟”である幼児期が、「対抗文化」たり得るのは、その時にしか育たない、しかし人間たらしめる何かがその時に育っているとの「理解によっています。このことは幼児期と向い合う大人が、その意味や重大さを理解してはじめて「対抗文化」たり得るのはもちろんです。同時に、完全無欠があって、それが目的、目標になって人は育つという理解からは、「対抗文化」としての幼児期という視点は生まれてきません。
「北村慈郎教師に対し教師退職勧告を行う件」が決議されたことで、危なっかしいと思わざるを得ないのは、この議案・決議をするところからは、兵庫教区教育部委員会などで積み上げてきた子ども理解は生まれようがないことです。教会は、教会学校、付属施設などの働きによって、少なからず子どもたちと向い合ってきました。退職を勧告する議案や決議は、そうして子どもたちと向い合うことの意味を踏みにじる、全く配慮を欠いた議案、決議であったと言わざるを得ません。子どもと(更に子ども的なものと向い合う)大人としての判断・英知が生きるとすれば、それを振り回すことではなく、寄り添ったり、見守ったり、後押ししたりなどの働きです。兵庫教区教育部委員会は、教会教育(教会学校、付属施設などの働き)が、教会の未来への希望であるとして、子ども理解の学習を諸教会に呼びかけ実現してきました。この度の常議員会の議案・決定からは、教会の希望も教会の子どもたちの希望も何一つ読みとることができないのは残念です。
2007年10月30日
日本基督教団
兵庫教区教育部委員会(上記の見解は、2007年10月25日の兵庫教区教育部委員会の確認にもとづいて委員長がまとめました。)
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