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2007年11月03週
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「少子化社会白書」(2006年版)には、少子化問題、少子化対策としてたとえば“第3章・子どもの成長に応じた子育て支援策”のことが取り上げられ、具体的にその道すじが論じられています。そこでは“「新しい少子化対策について」における年齢別子育て支援策のイメージ”として、“新しい支援策”のことも示されています。“認定子ども園”も、そうした支援策の一つとして推進されているものであり、その全体については別紙のようになります。こうして、新しい支援策が示されるものの“少子化”に有効な手立てになっていないのが現状です。少子化問題とは別の子どもたちの問題、“虐待”の増加は著しいものがあります。子どもという未来への希望、希望そのものであるはずの子どもが、この国では希望にはつながりにくくなっていることが、少子化や虐待の事実になっていると考えられます。要するに、1994年のエンゼルプラン以降様々な形で示されてきた“子育て支援策”は、結果的に少子化の歯止めにはならなかったし、その一方で虐待の増加にも役割を果たせないまま今日に至っています。


 そのことに留意しながら、“新しい少子化対策”を見る時に、確かにたくさんの対策は示されているものの、子どもという未来への希望、子ども理解についてはほぼ言及されていない事に気付かされます。子どもたちと生きることの喜び、豊かさが言及され共有されること、そのことの意味が問い直されることなしに、少子化の“対策”だけが一人歩きしているかのようです。
子どもはいなくてもよい、子どもは少なくてもよいという、それで完結する大人の文化の現状が、“対策”だけをどれだけ立ててみても、少子化や虐待を押しとめることにはなりにくいのです。そこに子どもたちがいる、子どもたちをかけがえのない、そして欠くことのできない仲間と理解する文化を取り戻さない限り、少子化にも虐待にも立ち向かえないように思えます。
たとえば、教育は「親が子どもにしてやりたいこと、子どもへの教育の中身は、生まれてくる前にその子どもの意志や個性に関係なくあらかた計画され決められている」のが現状です(「子どもという価値」、柏木恵子)。しかしそうであるとすれば、そこでは子どもの文化は何一つ了解されてはいないし、子どもと生きる驚きや発見、そして喜びも、子どもはもちろん大人の側にも生まれにくいのです。


 その“教育”において、子どもたちは「好奇心と自発的な探索と試行錯誤で学ぶ」存在であり、そうして学ぶ時の「発達の主人公は子ども」なのです(前掲、柏木恵子)。子どもと生きる驚きや発見、そして喜びはそんな時にこそ生まれ、そのことがゆるやかに底流となって、子どもを育て文化を豊かにします。そして子どもを育てる文化の豊かさが、それのみが少子化に対しても虐待に対しても有効な手だてになるはずです。
今日、少子化対策と示されているほとんどは、大人による子育ての支援、大人社会を支援することで子育ての負担を軽減することとして取り組まれています。しかしそれは、おとな社会を一層強大にすることであり、その子どもたちには「早くからおとな社会の数々の性質を獲得しようとする」ことにつながっています(「幼児期」岡本夏木)。こうした、おとな社会の一方的な肥大、その子どもたちへの押し付けから一歩も出ることのない少子化対策は、子どもと生きることの驚きや発見、そして喜びにつながらないのはもちろんです。


 子どもと生きることの驚きや発見、そして喜びにつながるものがあるとすれば、子どもの生きる社会を“対抗文化”として了解する視座の獲得以外にありません。
「『真の幼児期』は、社会を常に人間的に批判し、自己を人間的存在たらしめゆく視座として私たちの中に働き続けてくれるはずです」(前掲、「幼児期」)。子どもの生きる文化が「対抗文化」として了解されない社会で、子どもたちは幸福ではあり得ないし、子どもたちが幸福ではあり得ない社会は、結果として少子化にならざるを得ないのです。
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