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小さな手大きな手

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2007年12月03週
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 自分の「トリスタンとイズー」を書いたローズマリー・サトクリフは、2人が“恋に落ちた”いきさつを、従来書かれていた物語とは別のものにしました。「わたしたちの知るすべてのトリスタン物語において、トリスタンとイズーが恋に落ちたのは、イズーの夫になるべきマルク王の初夜の晩のために用意された愛の薬を偶然にふたりが飲んでしまったからだ」「わたしが思うには、中世の物語作者は、イズーが人妻であるにもかかわらず、トリスタンと愛し合うことへの言い訳として、愛の薬を付け加えたのではないでしょうか。でもこうすると、わたしには、彼らの中に存在していた真実でなまなましいもの、彼らの一部であるものを、魔法薬の一種を飲んだ結果という、人工的なものに変えてしまうような気がするのです。それで、わたしはこの愛の薬のモチーフを削除しました」。


 ローズマリー・サトクリフの「トリスタンとイズー」は“愛の薬”ではなく、出会ってしまったある時に、「イズーの中の何かがトリスタンの中にトリスタンの中の何かがイズーの中に入り込んで、命ある限り、それらを取り戻すことができなくなった」事に気づきます。そしてそれが二人の“死にいたる愛”の始まりにもなります。引き返しようの無い世界に入り込んでいくこと、だから入り込むことを恐れるのが人と人とが愛し合う世界です。
気が付いてみたら、ある人の前に立っていて、その人への思いに何一つ保証がないからということで踏み出さなければ、もちろん何も起こりません。何も起こらないまま自分の時間はどんどん経っていきます。そして何かが足らない“焦燥”の時を生きてしまうのは、多分人は人を求める生き物だからです。そして、踏み出したはずの一歩が、その身をずたずたにすることもあり得るのが、人が人を愛するということです。


 人を愛するという、そんな意味で恐ろしい一歩を踏み出すのは、そのことの恐れをそのまま生きることを意味します。トリスタンとイズーの“死にいたる愛”は、物語の世界のこととしてだけではなく、あっちこっちで昔も今も続けられてきた、人の営みとして珍しいことではありません。いっぱいの人の助けを借りてそこまで生きてきて、 “勇気”と言い得るものの後押しがあって、なんとか踏み出せる一歩が人を愛するということです。そんなことは、何一つ気付かずに踏み出したとして、どこかで必ず代償を払うことになるのも人を愛するということです。
ですから、少しばかり人を愛することの意味を知って生きてきた一人の“大人”として、若い人達が人を愛する一歩を踏み出したことを謙虚に見守りたいと願っています。

MIRENA

MIRENAずっと前
みんな物語だった
風と出会いに歩いた時間
真夜中の台所で
大きな膝に抱かれていた
生まれてきてよかったですか
生まれてこなければ
と考えたことがありますか

MIRENAあの時
みんな夢だった
震えて拭った涙の事
潜った海の中で
静かな青に包まれていた
生まれてきてよかったですか
生まれてこなければ
と考えたことがありますか

MIRENA今の時
みんな自分だった
独り歩き続けた線路
終ることのない旅で
朝の光に出会った
生まれてきてよかったですか
生まれてこなければ
と考えたことがありますか

と書いたところ、「生まれてこなければ、と考えたことはありますか?」は「うまく理解できない」と指摘されました。こんな文章にまとめることになったのは、“生まれてきてよかったですか、生まれてこなければと考えたことはありますか”が見つかったからで、変更することも削ることもしませんでした。人が人を愛することの一歩を踏み出すこと、そこまで生きのびるように生きてきたことに、少しばかり付き合ったのであれば、こんな風に書くよりありませんでした。そして、踏み出すことになった“祝い”に、小黒三郎さんの組み木、“アダムとエバ”約70セットを二人の仲間の人たちに切りました。

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