人を裏切ったことで、名を残すこととなった新約聖書の中の人物がペテロです。捕らえられた「イエスを死にあたるものと断定し」なぶりものにする議会の中庭に居合わせたペテロは、大祭司の女中の一人に見咎められ「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と言われ、否認します。その後、同じ女中に「この人はあの仲間の一人です」と言われもう一度否認します。更に他の人たちに「確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」と言われ、「『あなたがたの話しているその人のことは何も知らない』と言い張って、激しく誓い始めた」と強く否認します。ほんのしばらく前まで、行動を共にしていた人のことで、その人が捕まって危険が自分にも及びそうになった時、“その人を知らない”と言ってしまえば裏切ったことになります。「黒の過程」(マルグリット・ユルスナール、白水社)のゼノンは、捕まった若者が“拷問を免れるため”あらぬことまでしゃべったことで自分も捕まってしまいますが、そのことでの釈明はしませんでした。ゼノンの物語は、起こってしまった闇の中で、「癒すかわりに、無言で介添えする人物が、まだ生きていてくれる」ことで、守るべきもののある事を示します。
知っている人のことを、知らないというに等しい扱いをしておいて、何一つ釈明しないのが宗教的営みだとして、それで何が守れるのだろうか。
以下、12月18日付けで、兵庫教区常置委員会に提出した要望書です。
2007年10月23、24日に開催された、第35回期第3回常議員会は「北村慈郎教師に対し教師退任勧告を行う件」を多数で可決しました。同10月26日付で「未受洗者への配餐を直ちに停止するか、さもなくば速やかに日本基督教団教師を退任されることを勧告する」という(退任)勧告書が送付され、12月31日までに応答することが求められています。
この勧告書なるものが、日本基督教団の教憲・教規の何に基づいているのか、その有効性や強制力がどこで保障されるのかなどのことは明示されていません。会議制を基本とする日本基督教団の総会に代わる最高決定機関である常議員会の決定なのですから、“重要”なのでしょうが、それであることがらの可否、進退を問うとすれば、可否、進退の根拠が示されなければならないのはもちろんですし、可否、進退を問う決定をしたことの責任の重要性は、同じように重大であると考えられます。
そして重要なのは、この決定が既に行なわれていることの取り止めや、教師であることを止めることを求めるなど、人が人として生きる、生存に深く介入する内容でもあることです。人が人として生きる、生存するということは、ただ生きるのではなく、“生きる意味”を問い“生きる意味”を探ることとして、ゆるがせにできないのはもちろんです。そうしてたどり着いたことの一つが、“未受洗者の配餐”であったとすれば、それ自体全くもってたいしたことではないのですが、そこに込められた真理契機は、たとえそれがひとかけらであっても、決して軽視できないように思えます。なぜなら、どんな小さな生命であっても、その生命のかけがえのなさは同じなのですから。そして、そんなことと向かい合う自分を守りたかった、もちろん小さな生命をどうであれ尊重することに、キリスト教という宗教の“起源”はあったはずですから。
未受洗者への配餐のことは、現在のところ、紅葉坂教会と北村慈郎教師のこととしてのみ、大きな問題になっています。しかし、日本基督教団の全体の1/3の教会では、実態として未受洗者への配餐が行なわれていると聞きます。兵庫教区の場合も、神戸教会(現教区議長)、東神戸教会(現教区副議長)、宝塚教会(前教区議長、現教団常議員)、明石教会(現教団常議員)などの諸教会でも、未受洗者への配餐は日常的に行なわれていると聞きます。どんな経緯であれ、その礼拝に集められた人たちの誰であれ、教会的な営みから排除するに忍びない、という思いからの配餐であったとすれば、それは受け入れるに足ることであっても、閉ざしてしまうことであるとは思えません。
退任勧告書が出され、それへの応答の期限を間近にし、少なくとも兵庫教区常置委員会の一般論としての対応ではなく、一つの教会、一人の教師の生きた言葉で、無謀に可否、進退を問うことへの応答としていただきたく要望いたします。
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