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2008年01月02週
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 Tくんが亡くなった知らせと、Tくんを送るにあたって、私どもにも役割があることになった時、すぐに“まど みちお”の「ぼくが ここに」が心に浮かびました。お手もとの式次第に記載されている詩です。

ぼくが ここに  

ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば
その一つぶの マメだけ
しか ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときにも

 他の何ものによっても代え難いのは、幼い生命の場合も同様です。そしてどんな言葉によってもそれを言い現し得ないことを、この短い詩の言葉で“まど みちお”は私たちに伝えました。
集まっていただいた皆様に、Tくんのお父さん、お母さん、お姉ちゃんの一文をお渡ししています。お渡ししている一文から読み取っていただきたいことがあります。

 それは、幼い生命を奪うことになった病気に立ちむかっていたのは、“苦痛を和らげることを求める悩める肉体、そして心”であったことです。
Tくんがなくなる3日前、1月3日に阪大病院にお見舞いに行かせて頂きましたが、会うことはできませんでした。


 そして3日後の1月6日にTくんは亡くなってしまいました。お聞かせいただいたところによれば、前日の1月5日夜に、Tくんの様子は“好転”しました。“好転”することを信じて、Tくんとご家族、阪大病院のお一人お一人が力を尽くしてきました。しかし、1月5日の“好転”が、Tくんの最後の輝きとなったのは残念なことでした。ニ転、三転する病気の病状を引き受け、そして“好転”することを信じて病気と治療に向かい合ってきたTくんは“つかれた”と思い、それを口にもしました。そんな最後となった輝きと、最後を迎える言葉を残し、幼いTくんの生命は終わりの時を迎えることになりました。どうか皆様には、生命というものがそのようにしてあって、時にはそのようにして終わりの時を迎えるものであることを心にとめていただきたいと存じます。


 Tくんの生命を生かし続けるため、力の限りの働きが注がれることになりました。その働きは“苦痛を和らげる”のではなく、“苦痛を続けさせる”ことになるのかも知れない、ぎりぎりの境い目のところで、“もういい”という決断がなされ、一人の幼い生命が終わりの時を迎えることになりました。そのようにして生きて、そのようにして終わりの時を迎えた幼い生命は、“この世ではほかには見られないだろうと思われるくらい素晴らしい”生命であった、それを一言で“不世出”と言いますが、生命の終わり、完結であったと理解しています。それが“不世出”であり得たのは、その限りを尽くしてTくんが生き、その限りを尽くしてTくんの生命が尊重されたという意味で、それはまごうことなき“この世ではほかには見られない不世出のTくん”であり得ることができました。


 ここに集っていただいた皆様にお願いをしたいのは、“耐えられるだけ深く悲しんで、静かに自分の胸に収めて”おられるご家族のことを心にとめ、“耐えられるだけ深く悲しんで、静かに胸に収めて”心にとめていただくことです。 (2008年1月7日 前夜式での式辞)
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