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2008年02月03週
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 教会の読書会(毎週第2、4水曜日)で「自閉症―これまでの見解に異議あり!」を読み始めました。準備なしで2、3ページずつ声を出して“輪読”するだけの集りですから、どなたでも参加できます。

 
 村瀬学さんが『自閉症―これまでの見解に異議あり!』を書いたのには理由があります。村瀬さんは大学(同志社女子)で教えるようになる前、地方公務員(大阪府交野市)として、“知的障害”を持った子どもたちの近くで仕事をしていました。その時に出会っていた子どもたちを“障害”と言わずに、“理解遅れ・・・”としたのは、その子どもたちを、“私”と地続きのところで生きる人間として捉えていたからです。『自閉症―これまでの見解に異議あり!』では、「彼らとわれわれは決して断続しているのではなく、むしろ同じ地平に立っている」ことを、具体例をもとに“実証”します。
『自閉症―これまでの見解に異議あり!』を一緒に読んで、人間はもっともっと共感しあえる生き物であることに気付いてみませんか。


 読書会の1回目で、いくつかのことが話題になりました。「暮らしとか日常性を大切にするのなら、それを支える日常の言葉を大事にしなければならないという根本のところを問題にしているのである。日常の暮らしを大事にするなら、日常の言葉を使えばいいわけで・・・」(20ページ)と言われたりする、“暮らしとか日常性”は、ごまかしがきかなかったりするのが普通です。朝、顔を合わせた子どもたちの目のあたりが、ほんの少しだけ汚れているのを見つけ、さり気なく“顔を洗ったか”と聞いて見ると、おおむね“アタリ”でコックリうなずきます。“暮らしとか日常性”は、習慣ではあるのですが、だからと言って全く完全にとは行かなくて、忘れることも多いのです。しかし“暮らしとか日常性”が豊かだと、長く記憶に残ってその人の言葉の世界、ひいては生活そのものを豊かにします。そして、日常の暮らしの日常の言葉は、特に気をつけてはいなくても、その人の身につきます。
高齢者の施設でお世話になっている父の“暮らしとか日常性”で、一番際立っているのは、同じように世話になっている高齢者一人一人、そしてお互いの言葉が圧倒的に少ないことです。たまたま訪ねていった時、テーブルを囲んでいる4、5人の高齢者同士で、会話をしているという様子は全く見られなかったりします。声をかけても、多くの場合言葉が返ってくるということもありません。たまに介護する人の言葉だけが聞こえてくる高齢者の世界(だけに近い世界)“暮らしとか日常性”は、そんな具合ですから、例えば言葉の世界としてはずいぶん貧しくならざるを得ません。
新年になって1ヵ月半あまり、父の言葉はうんと少なくなりました。そして言葉が少なくなった分、表情の変化も少なくなり、人への関心も薄くなったように見えました。正月以来、久しぶりに囲碁をすることになりましたが、囲碁をしているという意識もうすくなったようです。それでも、そんなに間違わずに石を置けるのは、父の“暮らしとか日常性”にいつかどこかで、極々自然に囲碁が入り込んでいたからです。


 しかし、“暮らしとか日常性”からの言葉が少ないか、皆無になってしまう時、その結果人への関心も薄くなってしまう様子に、手をこまねいてみているよりないのは残念に思っています。
「自閉症―これまでの見解に異議あり」を読んでいて、そこで書かれている“日常の言葉を使えばいい”“日常の言葉を大事にしなければならない”は、“自閉症”が話題になる場合だけでなく、たとえば“認知症”の場合も、人が人として生きるどんな場合、根本のところ“地続き”であるのは同じなのです。
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